『純粋理性批判』読書メモ(そ)
ramen.icon『純粋理性批判』を読みながら思ったことをかなり雑にメモする
ページ数は平凡社ライブラリー版
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私たちが或る対象によって触発されるかぎり、その対象が表象能力へと働きかけた結果は、感覚である。感覚をつうじてその対象と連関するそのような直観は、経験的と呼ばれる。経験的直観の規定されていない対象は、現象と呼ばれる(p. 146、34)
この「経験的直観の規定されていない対象」がよくわからない
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必然性と普遍性の違い
「ある命題Aが必然的である」と言われる場合、その命題Aに対する反例が過去・現在・未来にわたって存在しえないことを意味する
「直線は二点間の最短距離である」という命題は反例が存在しえない
これに対して「ある命題Aが普遍的である」という場合は、今まで反例が存在しなかったという(程度の)ことを意味し、未来にも存在しえないかは未確定
「カラスは黒い」は今まで反例が存在しなかったかもしれないが、未来のある時点で反例が生まれる可能性はある
と思ったけど黒くないカラスはいるらしい
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「彼女は女である」という文は普通に考えれば分析的判断である。「彼女」という概念に「女」という概念は既に含まれていて、それをただ述語に持ってきて作られた判断のように思われるからである
しかし、次の場合はどうなるのだろうか。例えば「彼女」という概念を正しく習得できなかったAさんがいるとする。Aさんは「彼女」を単なる三人称単数を表す語として──he or sheの意味で──理解している。この場合、Aさんが行う「彼女は女である」という判断は「分析的」か「綜合的」か。
Aさんにとっては、「彼女」という概念には必ずしも「女」という概念が含まれているわけではない。したがって、Aさんが「彼女は女である」と判断する場合は、それは綜合的判断である。つまり、ある判断が分析的判断か綜合的判断か、というのは判断を形成する人が「どのようにその概念を理解しているのか」による。このように考えることは可能なのだろうか?
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読んでないがタイトルだけ見ると参考になりそう
読んだ。短いからすぐ読める(短いくせに節が多い)。途中論理展開が性急に感じたところもあったが(第六節)読みやすい気はする
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ところが、この種の認識も或る意味においてはやはり与えられているものとみなされることができ、だから形而上学は、たとえ学としてではないにせよ、それでも自然素質としては現実的である。なぜなら、人間的理性は、多くのことを知りたいというたんなる虚栄心によって動かされてではなく、おのれ自身の欲求に駆りたてられて、理性のいかなる経験使用によっても、したがってそこから借りてきた諸原理によっても解答されえないような、そのような問いにまで絶えまなく進んでゆき、かくして現実にはあらゆる人間のうちに、理性がおのれを彼らのうちで思弁にまで拡張するやいなや、なんらかの形而上学はあらゆる時代にあったのであり、だからあらゆる人間のうちにつねにありつづけるであろうからである(『平凡社版』第二版序論pp.123-4、底本ページ番号22)
以前VCで話題になったが、やはりカントとしては「あらゆる人間(的理性)」は形而上学に向かうものと考えているらしい。
また、第一版序文冒頭の「その認識のある種類」が何を指すのかということも話題になったが、上の引用文冒頭の「この種の認識」がそれに対応すると考えるならば、やはりそれは「形而上学(的な問い)」を指していると考えられる
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カントによるヒューム批判(平凡社p. 120、第二版序論20) 1 ヒュームの理論によれば、アプリオリな(綜合的)命題は不可能である(したがって、形而上学(純粋哲学)も不可能である)
2 しかし、アプリオリな綜合的命題を含む純粋数学は現実に成立している。ゆえにアプリオリな綜合的命題は可能である
3 したがって、ヒュームは誤りである
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重さのない物体ってないのだろうか
「宇宙を飛行している人工衛星」に重さはないらしい
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「矛盾の原理」(p. 102)とは何か?
「この概念から私は述語を矛盾の原理にしたがって引き出しうるだけであ……」
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序文ではカントは「論理学」はそれ以上一歩も進歩する必要もなく完成されていると述べていたが、実際にはカント以降のフレーゲによって、論理学は確実に進歩してしまった。
ただ、「アリストテレスが完成させた論理学」という意味ではあながち間違いではないかもしれない
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直観・表象・認識とかの区別ははっきりさせたい
現時点では第二版序文(平凡社ライブラリー版)p. 48を参照して、直観は直観(能力)、表象は直観によって捉えられたもの(「現れ」的なもの)、認識は──直観と対照的に用いられるところでは──客観的な認識と理解する
たとえば、棒状のものを水に入れると曲がって見えるなどの錯覚は、表象ではあるが認識ではない
表象については以前の『純理』読書会でも自分で言及していた(disco) これによると「表象」は「感覚」・「概念」・「心像」を含む語であり、一言で言えば「意識に生じるものすべて」らしい(cf. 『カント入門講義』)
これが正しければ、「表象」は、上で述べたような「直観によって捉えられたもの(「現れ」的なもの)「だけ」とは限らない
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第二版序文では、模索と学(問)は対義的に用いられている
数学、論理学は学(問)の確実な歩みを辿っているが、形而上学はそうではなかった (= 模索にすぎなかった)
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客観と対象の違いはなんだろう?
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独断論とか懐疑論のところは実際の哲学者の名前が挙げられると、具体的に理解しやすくなると思うのだが、誰が当たるのだろう
懐疑論者はヒュームか?
独断論者は──カントとしては、多分カント以前、つまり理性批判を行うことなく形而上学の問題に向かった哲学者全員を念頭に置いているような気もするが──典型的には誰が挙げられるか?
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第一版の序文では理性は、答えることもできないが無視もできない問いを課せられているみたいな記述があるが、これは具体的には神・自由・不死に関する問いであることが第二版序論(p. 91)で示されているように思われる
しかしこの理性観はどこまで一般的か?素朴に考えて「神・自由・不死」に全く関心のない人(理性?)もいるだろう
「理性では答えることができない」はまだわかるが、「無視できない」は謎
久住哲.iconアリストテレス「すべての人間は知ることを欲する」的な発想があるのかも
中島義道はカントの理性観はかなり特殊なものであると『噛み砕く』で言っていた
これは文字通り「人間的理性(を有する人)のすべて」が、「神・自由・不死」などの形而上学的問題を拒絶できず、課せられていると解釈するなら、それは明らかに現実とは反する。どう考えても現実には形而上学的問題に全く関心を持たずに死ぬひともいるのだから
しかし人間という種(人間的理性)には、そういった問いに関心を持つ「傾向にある」程度であればわかる。「形而上学」という学問が古代から現代まで続いていることもまた事実なのであるから
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「(アプリオリではなく)純粋な認識」の具体例はどこかに書かれているのだろうか?
経験的な概念を一切含まない「アプリオリな認識」=「純粋な認識」であるらしいから、理屈としては「純粋悟性概念」のみの認識であれば──「純粋悟性概念」のみで命題(判断)を作れば──それは「純粋な認識」であろうが、具体的にはわからない 数学の命題は「純粋な認識」なのかもしれない
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『純粋理性批判』の認識の説明でメガネの比喩が用いられるのしばしば見るが、その度に自分が受講した大学の講義で教授が「その比喩は正確ではない」と言っていたのを思い出す。しかし、肝心の「どういう点で正確でないのか」を全く思い出せない。個人的には便利な比喩だと思っているのだが。