人間の理性には「形而上学的問題」が課せられている?
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第一版の序文では理性は、答えることもできないが無視もできない問いを課せられているみたいな記述があるが、これは具体的には神・自由・不死に関する問いであることが第二版序論(p. 91)で示されているように思われる しかしこの理性観はどこまで一般的か?素朴に考えて「神・自由・不死」に全く関心のない人(理性?)もいるだろう
「理性では答えることができない」はまだわかるが、「無視できない」は謎
中島義道はカントの理性観はかなり特殊なものであると『噛み砕く』で言っていた これは文字通り「人間的理性(を有する人)のすべて」が、「神・自由・不死」などの形而上学的問題を拒絶できず、課せられていると解釈するなら、それは明らかに現実とは反する。どう考えても現実には形而上学的問題に全く関心を持たずに死ぬひともいるのだから
しかし人間という種(人間的理性)には、そういった問いに関心を持つ「傾向にある」程度であればわかる。「形而上学」という学問が古代から現代まで続いていることもまた事実なのであるから