『純粋理性批判』第一版序文(ⅠⅩ)の「あの要求」が何を指すのか問題について
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「あの要求」が何を指すのか問題、確かにそれが直前のロックによる自然学(及びそれによって形而上学の諸抗争に決着をつけてしまうこと)を指すと考えるとなんとなく違和感がある──「あの」ではなく「〈その〉要求」であれば問題なかったのだが──。しかし、それより前の「形而上学に軽蔑を示すという時代の流行」、「形而上学の追放」といったことを「あの要求」が指すと考えればこの違和感は解消される。つまりロックの理論が──形而上学と呼ばれていたものが単なる自然学にすぎないということを暴くことによって──「形而上学の軽蔑」という時代の流行を正当化したのである
しかしこの解釈はその少し後の次の箇所と合致しないように思われる。「……したがって、人がそこからこの学を救い出そうとした軽視のうちへと落ちこんだのである」(Ⅹ、p. 27)。
形而上学を軽視(軽蔑)から救い出そうとした「人」とは誰なのか?文中にあるとすれば、それはロック(と彼の賛同者)しかいないのではないか。とすれば上のロックの理論が「形而上学の軽蔑」を正当化したという解釈と矛盾するように思われる /icons/hr.icon
ということで、ロック(の理論)は形而上学に対する世間の軽蔑から救い出そうとしたという線で一から考え直してみる。
形而上学がそもそも「万学の女王」と名付けられていたのは、形而上学が扱う対象──おそらく魂とか自由とか神とか──が卓越した重要性を持っていたからである
それにもかかわらず、形而上学を軽蔑することが「時代の流行」となっていたのは、形而上学が独断論者と懐疑論者たちの諸抗争の場と化していて、およそ数学や科学のようなれっきとした「学問」たりえていなかったから(cf. p. 29、ⅩⅠの原注)である
そこでロックが登場して、「人間悟性の或る種の自然学」(以下「自然学」)によって上記の諸抗争に決着をつけようとした。
……あの要求の合法性が完全に決定されるかのように思われはしたものの、だが、たとえ形而上学というあの自称女王の素性は卑しい経験という賎民に由来し、このことによって形而上学の僭称は当然疑わしいものとならざるをえなかったにせよ、……
ここが難しい
この箇所からロックの「自然学」は「あの要求の合法性を決定」し、かつ「形而上学が経験に由来する」ことを明らかにするものであるように思われる
これらに加えて「3 形而上学が経験に由来することを明らかにする」という三つの条件を「自然学」は満たさなければならないとすると、それは次のようなものであると想像できる。
「自然学」は「形而上学的な対象」(魂とか自由とか神とか)の問題を扱いつつ(条件2)も、それらの問題は経験から離れた思弁によって解決されるのではなく、経験に即して解決される(条件3)、とするもの──(あくまで)イメージとしては「リベットの実験」のように「自由意志は存在するか」という問題を実験などの科学的方法によって答えを出そうとするもの──。このような「自然学」の成果は共有可能であり、科学のように発展しうる「学問」である(条件1) 苦しい(笑)。純理本文にこのような説明はなく(多分)、推測でしかない。
そしてロックはこの「自然学」こそが実は正しい「形而上学」のあり方だと考えた。
それにもかかわらず、この系譜は形而上学にとっては実は虚偽の捏造であったゆえに、形而上学は依然としておのれの要求を主張しつづけたということが判明したのであって、そのために一切がふたたび古びた虫食いだらけの独断論のうちへと、したがって、人がそこからこの学を救い出そうとした軽視のうちへと落ち込んだのである……
前半はいい。ロックの「「自然学」こそが実は正しい「形而上学」のあり方」という考えが虚偽の捏造であったということ。どういう経緯でそれが判明したのかはわからない。
「形而上学は依然としておのれの要求を主張しつづけた」の要求は、先述の「あの要求」とは異なるものだと思われる。というのも、後者はロックの提案(の成功)によって満たされる「要求」であるが、前者は文脈的に、ロックの提案が失敗したが「ゆえに」それを「主張しつづけたということが判明した」要求であるからである。
ためしに「あの要求」= 「形而上学は軽蔑されるようなものではなく、万学の女王とみなされるべきである」という要求を上の引用文に入れると、「ロックの主張が虚偽の捏造であったが『ゆえに』、形而上学は依然として〈自身が軽蔑されるべきでなく、万学の女王とみなされるべきであるという〉要求を主張しつづけたということが判明した」となり、「ゆえに」の説明がつかない。
ロックの主張が虚偽の捏造であった「にもかかわらず」……とかだったら問題なかったのだが
ではここでの「要求」とは何かといえば、本文の記述で言えば、(形而上学は)「すべての経験の限界を超え出てゆく」、「経験という試金石をもはや承認しない」(p. 26、ⅤⅢ)といったことだと思われる。これは「形而上学」に経験を利用しようとするロックの「自然学」の提案とは真逆であり、したがってロックの提案が失敗したが「ゆえに」……という部分と整合性が取れる
もっとスマートな解釈があるような気もするが、正直この箇所は純理の本論とは関係ないので大まかな意味がわかればいいと思う