『モナドロジー』の7
『モナドロジー』の6
『モナドロジー』の8
モナドには窓がない
久住哲.icon
Il n'y a pas moyen aussi d'expliquer,
『モナドロジー』の6の冒頭に引き続き、ここでも、以下に述べることは存在レベル(本質的に)で不可能なのではなく、「説明のしようがない」という言い方がなされている。
comment une Monade puisse être altérée ou changée dans son intérieur par quelque autre créature,
モナドはその内面を他の被造物によって変化させられることがない。
被造物によっては変化しないけど創造者(神)によっては変化させられる?
変化は内面のことである
内面の変化を内側の部分の変化と考えてはならない
モナドに部分がない(cf. 『モナドロジー』の3)なら、内も外も無いように思われる。内外は、内側の部分(内臓や歯車)と外側の部分(皮膚や作用部分)であるからだ。
この内外の考え方をする限り、ライプニッツの言っていることが理解できなくなる。そこで、「内面」を別なふうに解釈する必要がある。
『モナドロジー』の8でも"changement dans les choses"(事物のなかの変化)という言い方がされる。この節では「質」の話がされている。
なお、『モナドロジー』の10でも変化の話がある。
puisqu'on n'y saurait rien transposer ni concevoir en elle aucun mouvement interne, qui puisse être excité, dirigé, augmenté ou diminué là-dedans; comme cela se peut dans les composés, où il y a des changements entre les parties.
ここでも『モナドロジー』の6と同じく複合体とのあり方についての対比がなされている。
つまり存在論。(なお、『モナドロジー』の8ではもろに「存在 Être」という言葉が出てくる。)
Les Monades n'ont point de fenêtres, par lesquelles quelque chose y puisse entrer ou sortir.
Les accidents ne sauraient se détacher, ni se promener hors de substances,
comme faisaient autrefois les espèces sensibles des scholastiques.
この箇所は前提知識がなければ「?」となる箇所で、岩波文庫河野与一訳傍注(四)に解説がある
デモクリトスのエイドラ:
物体からは微粒子が出ており、それが物体から出て眼に入り、見た者のなかで形象になる
これは内送理論の一種である
Ainsi ni substance ni accident peut entrer de dehors dans une Monade.
ライプニッツはここで、内送理論の話はしていないが、こと実体について言えば、実体のうちから微粒子的なものだったり可分解的なものだったりが放出されることはないとは言っている。また、モナドの中に他の実体および偶有性(たぶん、ライプニッツの世界に偶有性の居場所はない)が入ってくることもない。なので、いわば、外送理論も否定される。
そうなると、私たちがどのようにしてものの性質を認識できるのかについて説明が必要になる。
面白いところ
実体から何かが出たり入ったりすることがない、と言うことでモナドロジーの世界観は観念論に近づく
しかし、複合体も、独自の存在のあり方をするものとして、モナドと並んで、認められている
→『モナドロジー』の6
ここで観念論なら、複合体の存在を抹消してしまいがちであるように思う(観念に還元しがち)
いっぽうライプニッツは、単一な実体があると言えるのは複合体があるという事実があるからだ……と言っている。
→『モナドロジー』の2
もしそうだとすると、複合体の存在を抹消するなんてことはあってはならない。
ここで、物自体を思い出す。