自分の人生に意味を与えられるようになる
自分への怒りの続き。
僕は子どもの頃から、感情に支配されがちである。(主に怒り⇔悲しみ)
それがものごとに対して反射としてあらわれてくる。
怒りは6秒待てば鎮まるというのは、6秒待てば反射は起きないといっているようなもので、ほぼ何も言っていないに等しい。
また、意味を上手に扱うことも苦手かもしれない。
ムダに気を遣う癖は、意味を過剰に捉えてしまうことに依る。
意味作用が負の方面に働き、怒り・罪悪感・悲しみ・不安・葛藤となって掛け合わせで襲ってくる。
だからこそ、物語に強く惹かれてきた。
物語は負から正へ、カタルシスに導かれていく形式をとる。
そのような意味の転換のプロセスをたどることで自分自身を癒やしている。
パウロ・コエーリョ『アルケミスト 夢を旅した少年』が特に好きなのは、意味は自分でつくることができることが主題となっているから。
そんなことは思ってもみなかった。
そして石田英敬『記号論講義 日常生活批判のためのレッスン』では、そのことを説いているので熱心に読んでいる。
なぜ私にとって日常生活の意味批判(暮らすってなに)が必要なのか。
それは僕が意味を扱うことが苦手だからだ。意味とは限定であるならば、曖昧を一時期テーマに選んでいたことも符号してくる。
自分にないものに憧れる。
だから作る。
そういう整理なのかもしれない。
「人はどうしたら自分の人生に意味を与えられるのか?」
どんなことも意味を帯びてしまう。
自分の経験でいうと、野球が好きで、野球をテーマとするイラストを書いていて、それが需要もあったので、そういうことをやっていた。
最初は自分が楽しくてやっていたのに、だんだん他者の需要に乗っ取られていくような感覚があった。
意味が変わっていた。
自分で意味を作るとか捉え直すとかってことってとても大事だと思う。
同じ結果でもどう捉えるのか、意味付けるかによって色々違う。
そのメカニズムというか、そういうものってやっぱ意味とか記号とかそういうことなのかなと。
自分は広告もやってきたので、記号ってすごく感じる。
そういうところを分解して理解したいというのは漠然とある。
とっかかり的な感じで、石田英敬『記号論講義 日常生活批判のためのレッスン』
こちらにも期待=信念などの記述あり
千野帽子『人はなぜ物語を求めるのか』
#私はこう考える