「内在天文学」
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「内在天文学」なのは、微分幾何学に由来するか
空間の曲率という概念
空間の曲率はその空間の中から観測可能な内在量である 上記はまだ俺が無知だった頃の名残
エレベーターのパラドックスも,バラードの方にエレベーターが印象的に登場するという共通がある(苦しいか?)
テクストは自分自身が欺かれていることに気づけるか
多分気付ける
エレベーターのパラドックスも、直接の観測なしに、ある量を求めるという行為の直接的な例示。人は、直接観測出来ない量を様々なやり方で“観測”することが出来る。
系の内部にいながら、系の様子を理解出来るか
ほんとに自己言及好きだな。
人類は、この宇宙の様子を、宇宙の内部からの観測によって理解してきた。人類は、この宇宙がどのような形をしているのかということも、既に理解している。
ただ、これは非常に不思議なことに思われる。曲がった空間にいる観測者は、自分のいる空間が曲がっていることに本当に気付けるのだろうか。
これを解決するのが、微分幾何学の発展によって得られた空間の曲率という概念である。空間の曲率とは、字面通り、空間の曲がり方を示すもので、これは内在的な量(その空間の内部から観測可能な量)であることが知られている。いわば、この宇宙がどのような形をしているかという問題は、解決されることが数学的に保証されている。
作中において、人類と他の知的存在との間で認知的ニッチを巡る熾烈な生存競争が行われていることが明らかにされる。この競争によって、われわれの認知する宇宙は変容し、複数の認知状態間の遷移(ただし、離散的状態ではなく、連続的状態であると考えられる)を繰り返している。
それでも、「僕ら」は認知的生存競争の発生以前の“古典的”な科学的思考によって宇宙を認識出来ると考える。
本作では、天文学というロマンチックな題材と、理解出来ないという甘えた言葉は絶対に許さないという(一般的な読者にとっては)意味不明な闘志とにに由来する美しい描写と謎の叙情性が読者の足掛かりとして機能しており、本題である認知の内在性という面倒な話題に頼らずとも楽しんで読める構造が採用されている。
このような、難解な本題を据えながら、その本題と関連しつつも読み手へのフックとして機能するような小説的読みどころや心地よい文章をきちんと整備しているというのが、円城塔の小説の上手さ。無闇に難解なのではなく、しっかりと難解な本題へのアプローチもあり、本題に気づけなくても(そもそも普通の人は気づかないであろう)楽しめるポイントありと、楽しみが多段階的に設置されているのが本当に素晴らしい。
円城塔の小説の上手さとは、その理学的・文学的対話構造や作品の題材ももちろんそうなのだが、本質的にはそれを飾り立てる文章の上手さにあると思う。
人を嘲笑うような凶悪な自然であっても、人はその論理的思考をもって原理的に理解不能な領域以外はすべて理解出来るはず、いや、絶対に理解してみせる、というのが本作のSF的な主張。これはすなわち円城塔の文学的主張でもあって、原理的に理解不可能なもの以外の理解不可能とされるものの存在を許さないという、ある種の執着とも言える。
理解出来るものを理解しきっていったら、最終的に理解出来ないものも理解出来るのでは?
圏論とか、公理集合論に基づかない論理体系の場合は破綻する 素粒子物理学における、標準模型を超える新物理の探索は、この円城塔的な姿勢にすごく似ていると思う。標準模型を超えた粒子は、もしかしたら基本的な相互作用を感じない粒子かもしれない。これを探索することは非常に困難であるか、もしくは原理的に不可能である。わかるものを取り去っていって、わからないものがどれくらいかを知る、というのがすごく似ている。 もしわからないものが相手だったとしても、われわれは数学的構造を用いてどのようなものなのかという予測を立てることが出来る。たとえ相手がなにものであろうとも、たぶん、私たちは理解していくことが出来る。 ものすごくストレートな人間讃歌。
Feynman、『ファインマン物理学1』Sec. 2.1
「世界というものは神々の興じる偉大なるチェスのようなもので、僕らはその観戦者にすぎない。僕らはそのゲームのルールなんか知らないし、出来ることといったらその遊びを観察することぐらいしかない。もちろん、十分長い観察を経て、最終的に僕らはいくつかのルールを見つけ出すことが出来るだろう。この“ゲームのルール”というものを、僕らは基礎物理学と呼ぶ。」
文庫版p11「空の光は全て星の光」
文庫版p12 「引退済みの九百人のお婆さん」
14頁「自然数と加法だけからこの世を作った」
文庫版16頁にある議論は、拡散方程式からの発想だと考えられる 特に、1次元空間における拡散方程式の考え方がずばりそのもの
こう書いてみたが、エレベーターのパラドックスというものが存在するので、熱力学を持ち出すまでもないかもしれない
19頁「オリオン座が右を向いている宇宙と左を向いている宇宙があるとして、わたしたちはその間のどこかの宇宙にいるって言うこともできる」
ただし、離散的な状態ではなく、連続的な状態の重ね合わせ
20頁「爺様とリオが構築中の天文学は、そんな種類の入れ替えを基礎にしていて、〜」
P変換
同「ミクロな頭のコスモスとマクロな宇宙のコスモスを直接繋ぐ巨大な屁理屈に成長している」
ミクロな世界を記述する量子力学とマクロな世界を記述する熱力学を繋ぐ統計力学を指すと見せかけて、ここでは文字通りの意味。量子力学の原理をそのままスケールの大きなものに当てはめてみた感じ。 23頁、ニッチの話は生物物理学、数理物理学では有名な数理モデル(Lotoka-Volterraの競争モデル) 同じ資源(例えば同じ食糧、同じ生活環境)を必要とする2種類の動物が存在した場合、安定点は鞍型の不安定な共存解か、完全に安定した解(一方が生存、他方は完全絶滅)しか数学的には存在しない
すなわち、生物学的な多様性というものは数学的には存在し得ない
自然界で共存状態になっているように見えるのは、数理モデルにおける時間発展に対して現実の時間発展が極めて緩やかなため
記事公開から20分ほど経ったのち円城塔が投下したもの
円城塔は俺の文章を認知している……???
「ムーンシャイン」のときもお助けいただいたし、今回も意図を的中させられたっぽいのでよしとしておこう
このリンクを投下した意図が理解出来た(2020/10/30)
そもそも複雑系に“内部観測”という概念があって、今回の「内在天文学」はその自然な発露と見るのが正しいか 円城塔作品にたびたび圏論っぽい議論が登場するのは、複雑系で圏論を使っているから
おそらく、円城塔は複雑系がそもそも作中のような議論を行なっている領域であるということを俺に示唆したかったのだろう
それにしても、内部観測・内在性について全く知らない状態でよくあそこまで精度のいい解説が書けたものだと、われながら驚いている
下記の勘違い、そこまで大きな勘違いではなかったかもしれない
地上の法則と天上の法則が同一であるという信念から、ケプラーの成果とガリレイの成果を統合し、ニュートンの古典力学が得られた。
これには、統一的記述を与えることの正当性に関する問題と、そもそも法則の内部からその法則を記述できるのかという問題が存在する
正当性については、
内部観測の問題については、ガウスの驚異の定理をはじめ、人類はそのような観測においても有効な手段をよく知っている。
勘違いしてた頃の文章廃棄場
近代のいわゆる「科学の危機」以前の完成された科学はティコ・ブラーエによる観測とヨハネス・ケプラーによる精密な計算から得られた天文学・古典力学によるものだった(=ケプラーの法則) ケプラーの法則によって星の運行を司る天上の法則は完全に記述された。一方、地球上の諸物体の運動を司る地上の法則はガリレイによって記述された。これらを万有引力の法則によって統一したのがニュートンであった。
天上の法則と地上の法則が同一の法則によって記述されることによって、古典力学は完成にいたり、以降物理学者たちはこの完全な古典力学の数学的整備(=解析力学)と適用範囲の拡張(=気体分子運動論および熱力学)を行うことになる。
人は、天上の法則を調べることを通じて地上と天上とが同一の法則で記述されることに気づいた。すなわち、われわれの外部である宇宙を探ることによって、われわれの内面を知るに至った。
では、逆に、われわれの内面を知ることでわれわれの外部である宇宙を探ることも出来るのではないか、というのがこの作品のSF的主張。