2.構想:組み合わせと順序
価値創造は、予感から始まる。
しかし、予感はあくまで予感である。それは脳のなかに揺蕩う揺らぎでしかない。
確かに存在するのに、形になっていない。
形になっていないのに、確かに存在する。
その曖昧な存在を、他者に対して開くためには、人間は、言語や図形、数字や絵などを用いて表現することを避けられない。
表現するために、ヒト・モノ・カネを動員し、それを作り上げるまでの過程を思い描かなければならない。
それが「構想」というものである。
建築家や美術家は、エスキース、映像ならば、絵コンテ、といったように、各分野において独特の構想表現形式がある。
それらは、作りたいものの形状に踏み込んだ表現である。
なぜそれが必要か。
ラフなものでも、形を表現してみないことには、期待効果も必要資源も、成立過程も、具体的に見えづらいのだ。
とはいえしかし、いきなりエスキス、いきなり絵コンテというわけにはいかない。
(よほどの超天才を除けば)それ以前の、最初の言語的表現を、飛ばすことはできない。
構想の言語的表現形式は、一般に、企画書と呼ばれる。
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予感を立証するために、ある人工物を企てる。
その「ある人工物」のことを、いま仮に「x」と呼ぶ。
構想における最も単純な命題は「xをあらしめよ」である。
旧約聖書的の神様なら「xあれ」といえば、それで済むが、人間は、そうはいかない。
「xを、作りたい、作って誰かに提供したい」と、目の前の関係者に話すと、それが未知である場合、必ず反問にあう。
「なぜ、それが必要なのですか」
「本当に、いま、やることですか」
「aで済ませては駄目ですか」
「私はyがいいと思います」
「ちょっと電話がかかってきたので、後にしていいですか」
価値創造者は、孤独である。
価値創造が社会的行為である限り、その主体者は、企画構想を通して、他者を説得することから避けられない。
そのためには、x(個物)から遡ってX(集合)を考えなければならない。
「Xとはなにか」
「いま、なぜ、Xなのか」
「いま、私たちにはxを生み出す義務がある」
「xは、いかにすればなしえるか」
「そのために必要なヒト・モノ・カネ・時間、その他諸々の資源は、これこれである」
「成就したあかつきに得られる意義、意味、利益はこれこれである」
企画書に書かれるべき内実とは、こういうことなのである。
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企画書をまともに書けない社会人は多い。
与えられたフォーマットを穴埋めする、企画書らしきものは、いくらでも量産されている。
しかしそれらの98%はガラクタ同然である。
ガラクタでない企画構想とは、どういうものか。
それは、「Xとはなにか」というテーマを「XはYである」というコンセプトにまで、昇華したもののことをいう。
秀逸なコンセプトがなぜ強力なのか。
ひとえに、利害関係者の意識への、強烈な刻印力ゆえである。
価値創造のためには、利害関係者の協力を引き出すことが必須である。
協力を得るためには、その未知なる価値への予感を、共有せねばならない。
認知してもらい、関心をもってもらい、理解してもらい、好意をもってもらう。
一肌脱ごうか、自分の提供できるなにかを差し出そうかと、思ってもらわないと、人は動いてくれない。
秀逸なコンセプトは、それ自体が人を惹きつける。
人を動かす。
「芸術は、爆発だ」は、戦後日本における至高のコンセプトだった。
「所得倍増」も「国土改造」もパワーがあったが、「芸術は、爆発だ」には、叶わない。
「スーパーフラット」は、平成を象徴するコンセプトである。
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優れた新価値とは、既成のジャンルのなかに生まれつつ、かつ、そのジャンルを再定義する。
昔から人はそれを「青は藍より出でて藍より青し」とか「伝統は創造により継承される」と言ってきた。
何か新価値を生み出すということは、その新価値のルーツを探り、ルーツを更新することと同義である。
予感を企画構想として具現化する。
テーマをコンセプトに結晶させる。
そうした行いに、参考になるのは、例えば以下の書籍である。
コトの本質(松井 孝典)
矛盾と創造(小坂井 敏晶)
いかにして問題を解くか(G.ポリア)
今日の芸術(岡本 太郎)