「一言で表す言葉」たち(タイトル・テーマ・モチーフ・コンセプト・コピー)
絵画や音楽、映画、詩歌や小説、学術論文、あるいは商品や事業、施設に至るまで、人間の著作物や創造物には、それを一言で表す言葉、というものがある。
タイトル
タイトルとは、題名、表題、銘、名称、名前のことである
他のものと区別する、ということが、その第一義であり、原理的には機械的なID番号でも構わない
実際、昔のクラシック音楽にそうした存在様態が観察される(モーツァルト「交響曲第39番 変ホ長調 K.543」等)
後にこれが転じて「内容を一言で表す言葉」つまり「体験の予告」「鑑賞のヒント」として機能するようになった(ベートーヴェン第九「歓喜」等)
さらに転じ、タイトルの自己言及性の意図的活用によって内容そのものを膨らませる等、より抽象的なタイトルのあり方が出現したことで、タイトルを付与する行為そのものが創造的行為となるに至った(デュシャン「泉」等)
テーマ
テーマとは、主題や話題、つまり、中心となる問題、疑問、問い、問いかけ、ということ
◯◯とはなにか、◯◯のために、いかにするか、というところの、◯◯のことである
テーマを持ち、掲げるということは、それを探究するぞ、正体を探しにいくぞ、という宣言であるが、その満足な答えがあることは保証せずともよい
本来、テーマには答えはないのである、というか、そう簡単に答えが出るものは、テーマたり得ないのである
作品の価値とは、答えの正しさではなく、問題への迫り方やアプローチの独特さ、新鮮さや秀逸さにある
テーマとは「◯◯とはなにか、いかなるものか」「いかにして◯◯は為されるか」「いま、なぜ、◯◯なのか」という構文で語られるものである
テーマとタイトルは常に紙一重であり、またそれはsubjectと呼ばれる
subjectとは、主語、主体、主題、などと訳される
モチーフ
モチーフとは、題材、作品作りにおける動機のことである
◯◯をこそ描きたいから作品を作るのだという情熱やフェティッシュの対象、object、オブジェ、目的、というところの、◯◯のことである
具体的には、物語において中心となる人物や状況、できごとなどや、肖像画におけるモデルのこと、音楽でいうとリフや中心となるフレーズ、曲想等のことを指す
object(客体、オブジェ、モチーフ)は、まさしくsubject(主体、テーマ、タイトル)の対になる概念である
コンセプト
コンセプトとは、概念と直訳されるが、こと作品という文脈においては、命題やテーゼ、つまり、提唱する思想や着想のことである
コンセプトは「◯◯は、◯◯である」という構文を取る
これは、問いと答えをセットにしているのであり、テーマとモチーフがセットになったもの、というふうにも言える
例えば、「一年とは、なんだろうか」というテーマで作品を作る作家がいてもいいし、「12か月」をモチーフにし続ける作家もいていい
ふたりが力を合わせると「一年は12か月である」というような命題となるわけだが、こういう新鮮味のない、当たり前の命題は、常識であって、コンセプトとは言わない
まぁ、ごく当たり前であるが通常遭遇しない事態を、さも発見のように表現するという芸もあり得る(飴を舐めながらパンを食べると、パン、食べづらいね by宮沢章夫)
そういうものは、一旦、別として
「芸術は、爆発だ」は、コンセプトである
つまり、これまでの固定観念を打破し、人々に新たな認識や気づきを与える命題こそが、コンセプトと呼ぶに足る
転じて、コンセプトには「世界観」を意味する用例が生じており、ブランドコンセプト、コンセプトカフェ、等のように使われている
ある命題がコンセプト足り得るかどうかは、時代や社会との関係性による
もっといえば、社会に変革をもたらすようなものこそが、コンセプトである
キャッチコピー
キャッチコピーは、問題提起である
つまり、公衆に広く訴え、行動を促すためにある
「そうだ 京都、行こう」は、実にコピーらしい、まさにコピーの理想とも言えるコピーである
本来は、タイトルでは言い切れないものを補うためにある
商業主義的な文脈では、タイトルがすなわちコピーとなるようなもの、コピーを必要としないネーミング、それを可能にするようなコンセプト、といったものこそが、理想だと言われることもある
「モーレツから、ビューティフルへ」は伝説的な名コピーだが、極めてコンセプトに近いコピーである
まずは西洋絵画、西洋美術の文脈から
西洋絵画とタイトルの話をするならば、やはり、この作品から始めなければならない
https://gyazo.com/4c645c6854b412609bc609bee1c1ce6a
『モナ・リザ』
(伊: La Gioconda、仏: La Joconde)
(wikiより)
この作品が『モナ・リザ』と呼ばれているのは、16世紀のイタリア人芸術家、伝記作家ジョルジョ・ヴァザーリの著書『画家・彫刻家・建築家列伝』の「レオナルドは、フランチェスコ・デル・ジョコンドから妻モナ・リザの肖像画制作の依頼を受けた」という記述が元となっている
作者が明確にタイトルをつけたわけではないが、モナ・リザと呼ばれている絵である
モチーフがそのままタイトルになっている、最も理想的な作品
というよりも、「事実」が「タイトル」として機能している、というべきか
モナリザを描いたから、モナリザと呼ばれるようになった絵画
ちなみに、「モナ」はMy Ladyの意味にあたるラテン語の「Mea domina」の短縮形であり、マドンナ、聖母マリアを意味する
つまり、日本語に直訳すれば「リザ夫人」
ロマンチックに訳すならば「我がいとしの貴婦人にして聖母リザ」といったところか
ちなみに現地呼称の「ラ・ジョコンダ」は「ジョコンダ夫人」
これは苗字を呼んでいる
本作の凄さは、作家がタイトルによってテーマを積極的には明示、提示していないにも関わらず、多くの美術家や研究者等が、この作品自体をテーマとして探究していることである
「タイトル=テーマ」である作品というと、真っ先に思い出すのがこちら
https://gyazo.com/95d9e5e97b0f6cb9a0e174c4f8a7ab86
『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』
D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?
本作においては、タイトルがテーマを表す、という構造となっている
どこから来たのか、何者か、どこへ行くのか、の3つの問いは、当たり前だが、具体物を指す名詞ではない
この作品をモチーフによって命名するなら「南洋の島の人々」といったところだが
磔にされたキリストを連想させるメインモチーフと、このタイトルが重なることで、作品の鑑賞体験が豊かになる
映像作品とは「飽きさせないこと」がその本懐なのである
そのためには、作品の内部では構図による視線誘導の工夫が、そして外部には余韻や余白の演出が必須である
佐々木健一は「タイトルの魔力」で作品とタイトルの関係を、地球と月のようだと言ったが、まさに慧眼である
作品とは体験であり、より豊かな鑑賞体験をもたらした作品が、より多くの人に、より長く喜ばれる
タイトルが体験に影響する以上、タイトルをおざなりにすることは、作品の価値を不当に貶めることにもなりかねない
タイトルは、作品の説明であってはならない
そもそも理解されることは、消費され尽くしてしまう、ということである
作品に説明的なタイトルをつけることは、作品を短命化させる所業である
さりとて、取りつく島もないと、鑑賞が始まらないのも事実ではある
そして、人間は理解できないものには関心を示さない、ということもまた、事実
アート作品におけるタイトルと作品の要件とは、それらが互いに惹かれあいながらも反発するものでなければならない、ということである
そのことを、高らかに宣言したのが、みんな大好きデュシャンの「泉」であった
https://gyazo.com/6ccc8a3727860e2a89d18ca1ef6ca992
『泉』(いずみ、Fontaine)または『噴水』
これこそ「タイトルをつけるという行為が芸術の本質である、というコンセプト」を、初めて意識的に宣言した、エポックメーキングと呼ぶに相応しい事件であった
カッコイイ!!
そのデュシャンが最終的にたどり着いた境地
https://gyazo.com/edc2d92420101f8f70bcbf2f11565ae1
「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」
The Bride Stripped Bare by Her Bachelors, Even
通称として、大ガラス(The Large Glass)と呼ばれている
タイトルの意味がわからなすぎて、そして長すぎて、タイトルが無視されるという孤独
その結果として、タイトルの原初的状況に還ってきた、みたいな話だと思うと面白い
大きいガラスだから、大ガラスと呼ばれる
それは、モナリザが描かれているから、モナリザと呼ばれる、という現象の、まさに再来である
実際のところ、これはデュシャンにとってのモナリザなんだ、と、見立てると、このまったくもって意味不明な作品の意味がわかるように感じられる
デュシャンはモナリザ(マドンナ、聖母)を、徹底的に解体し、引き裂いた
こうしてみると、あらゆる芸術作品は、モナリザとの距離感で理解すればよいように思えてくる
そして、あらためてこうして、西洋美術のエポックを辿ると、畢竟、西洋美術のモチーフは、男性(キリスト)か女性(マリア)かのいずれかだ、ということなのだろう、と、思う
ダ・ヴィンチのテーマは「賛」だった、それを極めて素直に、真っ直ぐに、心からの敬意をこめて描いた
ゴーギャンのテーマは「疑」
デュシャンはそれをさらに進めて「辱」をテーマとしたように見える
もし存命で、観る機会を持ったとしたら、デュシャンはきっと映画「セブン」が好きだっただろうなと思う
https://gyazo.com/404835762bf33721871b3bf7daf6d3ad
映画
商業主義的な映画のタイトルは、モチーフと重なることが多い
例「エイリアン」「激突!」「アナと雪の女王」「となりのトトロ」
https://gyazo.com/bb4006cb25eb5c1565e6a8cfd1942b80
アート系シネマとなると、様子が変わり、コンセプトやテーマがタイトルに付与される傾向がある
例「道」「大人は判ってくれない」「天使のたまご」
https://gyazo.com/5589ec7eb4522eb9710c456490cdd40e
こうして考えてみると「君たちはどう生きるか」は、考察対象として面白い
いかにもこれは「テーマ」らしきフレーズに見える
鑑賞してみると、やはりモチーフなのであった
これまで、生き死にという、いかにも哲学的なテーマを扱ってきたジブリというスタジオが、ここにきて「タイトルで、テーマのふりをする」という荒技に出たのは、まぁ、つまり、テーマがなくなった、ということかもしれない
というよりも、問うまでもなくなった、ということか
https://gyazo.com/fcd400f880a6dc5b0291800c221c9696
海外版は、もっと素直なタイトルである
https://gyazo.com/b2004bbfde988b17ba3ba252fd0abba9
タイトルという観点で、ジブリ作品のなかで一番「アート度」が高かったのは、「もののけ姫」だったのかもしれない
この映画を、モチーフから名づけるならやはり、「アシタカせっ記」だった
とはいえ、ネーミングの意図は率直な商業主義の結果であり、意図せざるところの結果として、そうなった、という話ではあるように思える
https://gyazo.com/348bb97792f13be3ae67b1db9ecc8176
映画音楽
映画と映画音楽における「テーマ」の言葉の扱いの違いは、実に一考に値する
観点① ◯◯のテーマと題された楽曲群の話
そのフレーズを聞くと、その映画を思い出す、という象徴的なメロディやリズム、楽想やリフレインがある
例 「インディ・ジョーンズのテーマ」「スター・ウォーズのテーマ」等
このあたりの話は「すばらしき映画音楽たち」という素晴らしい映画で語られているのでお勧めである
https://gyazo.com/1a29af66cf88fb41d3a9dca26b67438e
映画を象徴するフレーズは、映画の中でも、様々な形でアレンジされ、繰り返し演奏される
音楽用語でいえば、それはモチーフと呼ぶべきものである
wikiから引くと、以下の通り
モチーフとは、独立した楽想を持った最小単位のいくつかの音符ないし休符の特徴的な連なりを言う。楽曲を形作る最小単位である。基本的には2小節からなるとされることが多い。これは、1小節以下の長さの楽句では拍子が確定できないためである。この動機をさらに2つに分けることができる場合、その一つ一つを部分動機と呼ぶ。 クラシック音楽の楽式論においては、ひとまとまりの旋律を主題と呼び、たいていは8小節程度を標準として、場合によっては数小節程度のものから数十小節の長さの規模を持つものもあるが、この主題はいくつかの動機が集まることで成り立っている。もちろん、ひとつの主題の中に同じ動機が繰り返されることもある。
映画のテーマを、楽想によって象徴する、という行為があり得るということが、興味深い
テーマとは、問い、つまり、謎掛けである
インディ・ジョーンズのテーマにおける「タン、タカタカタン、タンタン、タカタカタン」を聞くと、冒険せずにはいられなくなるし、子どもたちとアスレチックやなんかで遊んでいて、冒険的な状況に直面すると、自然と「チャーンチャ、ラ・チャーン、チャーチャラー」と歌いだしてしまう
それは人間の認知系における、どういった作用なのか、そういうことを解明せんとする論文があるなら、ぜひとも知りたいものである
観点② テーマソングの話
一方で、映画に「テーマソング」を付与する場合もある
日本映画でこれにもっとも成功したのは、鈴木敏夫であり、ジブリである
例 「天空の城ラピュタ」と「君をのせて」
これについては、押井守監督が実に鋭いことを言っている
テーマソングは、映画には必要ないが、映画の宣伝に必要なのだ、と
そして、鈴木敏夫のテーマは大衆動員だ、ゲッペルスだと度々指摘しており、確かに氏が糸井重里氏を重用してきたこととも符号する
茶碗
茶碗の銘と作者との関係も、面白い
そもそも焼き物とは、作者の人為を超えたものである
土と火と水、つまり、自然の織りなす創作であり、もともと人智を超えている
よって、テーマとか、コンセプトというものでは、名付け得ない
銘物としての器は、出来上がったものを見立てることで、命名される
https://gyazo.com/58b191ed7548d50770827bdc0fe6099a
本阿弥光悦 不二山
ワイン
ワインも実は、同じである
まともなワインには、産地と作り手の名前だけがある
一流のワインは、テーマだ、コンセプトだといったネーミングをしない
建築
建築物も、作家の作品であり、アートと同列に並べられることも多いが、意外とネーミングについてのこだわりはなさそうである
https://gyazo.com/eb66fa32f85c63bd10654bcdbbf87074
サヴォア邸/ル・コルビュジエ(1887-1965)
東京タワーも「東京にある塔」だし
スカイツリーは、少し例外的に、作為的にネーミングされているが、これはまぁ「第二東京タワー」とかだと、さすがに情緒がないと関係者が判断したのだろう
若干脱線するが、スカイツリーの肖像権の悪評は有名だが、ネーミングとの関係性においてそれを考察するのは面白そうである
太陽の塔は、もともとは「太郎の塔」と呼ばれていたが、公共的な建築物に、個人の名前を冠するのはけしからんということで、この名前になったそうである
まぁ、「太郎」(意訳すると長男)が個人名なのかという問題を考えるのも楽しそうではある
https://gyazo.com/e314ac3debc2a892540303122940d5d8
太陽の塔
料理
料理は、タイトルやネーミングにこだわりがない、というよりも、こだわることができないものである
焼き飯、とか、牛すじ煮込み、とか
そうだからそう、としか言えない
そもそも料理には、テーマもコンセプトもへったくれもない
高級レストランの作家的な料理にしたところので、何某の何、なになに風、というのがせいぜいである
ポトフ、とか、カレー、とか、パエリア、とか外来料理名はいかにもコンセプチュアルな印象を受けるが、現地語でいうとだいたい、鍋物とか汁物とか、そういった意味合いの言葉である
お菓子
一方で、お菓子の命名は実に面白い
「ポッキー」とか
ポッキーを「チョコレートかけプレッツェル」と読んでいたら「イチゴポッキー」は生まれなかった
和菓子の命名文化も趣き深い
https://gyazo.com/b347cf92f59165fcdc56af2c56112b3c
茶碗もそうだけれども、「与えられる」銘というのは、なんとも奥ゆかしい
漢方薬
漢方薬は、成分=名称、というものがほとんどであるが、そのありかたは料理に近い
例 桂枝加竜骨牡蠣湯
桂枝に竜骨(大型哺乳類の化石の粉末)と牡蠣(の殻を粉砕したもの)を加えたもの
食器用洗剤
キュキュットはモチーフ(使用価値)
JOYはコンセプト(世界観)
(ここで考察)
こうして考えていくと、自然物やそれに近い人工物には「そうだから、そう」という命名がなされるのが基本だ、ということがわかる。
食べ物や薬なんかはとくに、名称によって実態についての誤解が生じることは、有害無益であり、時には危険ですらある。
逆に言えば、誤解の余地があっても良いものや、その遊びが味になるような作為的な人工物には当然、恣意的な命名がなされるわけだが、その作為が目につきすぎるものは、いかにもワナビーな、素人的な雰囲気が漂う。
その昔、TVチャンピオンなる番組で、参加者が工作やらなにやらをして、それに題名をつけるということをしていたが、実に悪い意味でのポエム的な、不思議な命名をしていたのが可笑しかった。
人為にして、人為ならざる命名、というものが、命名の極意である、と言えそうだ。
小説
小説のタイトルには、モチーフが付与されることが多いようである
https://gyazo.com/24c303e8330bad14870383f78600dbac
https://gyazo.com/6b18742b849a0131dd109a3ea4c35ab8
こうした観点でいうと「吾輩は猫である」は実にエポックメーキングなタイトルであった
当時の言文一致の模索状況を象徴する意味で、タイトル=コンセプト、が成立している小説、ということで、稀有である
https://gyazo.com/1e40bdc504503e0f490f8130d60a3416
夏目漱石といえば「こころ」もそうで、これはモチーフでもあるが、どちらかというとテーマ寄りである
それに比べて「人間失格」は、そのものずばりのモチーフによるネーミングであり、タイトルの付け方は、太宰は漱石の足元にも及ばない
ビデオゲーム
ゲームのタイトルも、モチーフが中心であるように思える。スーパーマリオ、ドラゴンクエスト。
そのなかで、motherは異色であって、ゲームのなかに母は確かに登場するものの、それは主人公でもラスボスでもない。モチーフと呼ぶには存在感が薄い。ゲームの成り立ち自体が、日本流RPGのパロディ、脱構築的な部分があるので、その分、タイトルも変則的であるのだろう、と、思っていたら、偶然、糸井重里氏本人の言葉で、2023/2/23今日のダーリンにて、真意が綴られていた。
(ほぼ日より)
「なぜ、このゲームはMOTHERというタイトルなのか」ぼくも何度も説明もしたはずだし、みんなももうわかっているつもりなので、質問もしない。しかし、おかしいなぁと、いまさらぼくは思ったのだ。「MOTHER=母」とタイトルをつけるべき理由など、ほんとうはほとんどなかったのではないだろうか?
あえて、いま75歳にもなったぼくが思うのは、とても単純なことだった。たぶん、「MOTHER=母」って言いたかったんだよ。世界中に向かってでかい声で「おかあさん」と言ってみたかったんじゃなかったろうか。昨日のインタビュー中は、声を出しての話しことばでは、そんな生なましいことは言えなかったのだけれど、たぶん、こういうことだ。ぼくは「MOTHER=母=おかあさん」について思ったり考えたり話したりすることを、子どもの頃から、ずっとじぶんに禁じてきたような気がする。ものごころ付く前に両親が離婚したので、母はいないものだと思って生きることになった。そのことでいちばんいやだったのは、この境遇について同情されることだった。「かわいそう」と言われるのだけがつらかった。母がいないこと、母との関係がないことについて、ぼくは「平気」だと思っていて、平気で過ごしてきた。で、それを何十年もやってこられたのだけれど、ぼくの「母」についての実感のなさは、たぶん、心に、なにかしらの無理を強いてきたのではなかったか。その禁じてきた「母」ということばをでかい声で言える機会を、ここに見つけたのだと思う。ま、これはぼく自身による、ぼくの気持ちの想像だけどね。
任天堂という会社のテーマは「ゲームがお母さんから嫌われないこと」であった。子どもの教育に悪い、生活リズムや視力に悪い、ゲーム機やソフト類で部屋が散らかると汚い、等のネガティブなイメージは売上に直結する。
故岩田社長と懇意にしていた糸井重里が、そのことを察していないはずもなく、おそらくmotherという名付けは、当該タイトルというよりも、ビデオゲームという新たな文化や、その担い手である任天堂のテーマを反映していたのではないか。
評論や学術論文
評論や学術論文のタイトルには、テーマが付与されるのが通常である
https://gyazo.com/445bbfbe8726cd30d4f6f0c897a1294d
経典
経典のタイトルは、本来コンセプトであったものを省略し、モチーフを残したもの、ということが多いように思われる
般若経 「般若=プラジュニャー(最高の智慧)」・「波羅ム=ハラム(彼岸=悟り)」・「イ多=イター(渡る)」
華厳経 「雑華厳浄(ぞうけごんじょう)」(大三千大世界がそのまま、廬舎那仏のお身体である)
法華経 妙法蓮華経「白蓮華に喩えられる正しい教え」
教科書・解説書等
教科書や解説書のタイトルは、特に商業出版におけるそれらは、モチーフとコピーの中間的なものである
「なぜ◯◯か」という形式が似合う
俳句
俳句には、タイトルがつけられない
俳句には、テーマとモチーフしかない
しかもそれが、作品の内実そのものであるという意味で、もっとも完成された文芸である
俳句を俳句たらしめる形式を生み出した、まさに金字塔たる、まさにコンセプトたる作品が、もっとも人口に膾炙していて、誰しもが「タイトルだけ聞いたことがある」「中身はうろ覚え」ということではなくて、その作品全体を暗唱することができている、ということは、奇跡という以外にない
古池や蛙飛びこむ水の音 の話である
言文一致の変革期を経てなお、まったく違和感なく通じるということも、考えてみたら非常に奇跡的である
当初案は「山吹や蛙飛んだり水の音」であったわけだが、これが採用されていたら、日本文芸や日本語自体がまったく異なる方向に進んでいたかもしれない
https://gyazo.com/dff6c95ebbd1b9f9f92da007074bd13a
テレビやラジオ番組
テレビ、ラジオ番組、なかでもバラエティ番組と呼ばれるジャンルにおけるタイトルの多くは、キャッチコピー的である
例 「笑っていいとも!」 等
タイトル戦
将棋やボクシングなどで、タイトル戦と銘打たれた試合や、その優勝称号を「タイトル」と呼ぶことがあるわけだが、あれは一体どういうことなのだろうか
称号、ということなのだろうけれども
例えば「名人」「竜王」などの命名法は、ある種の世界観、コンセプトを暗示しているようである
ポップソング
ポップソングにおけるタイトルと作品、作家、あるいはファンやセールスとの関係にも、何かがあると思われるが、ちょっとよくわからない。今後の研究課題である
https://gyazo.com/9cdf9d8a483bbd65b2682a970ab33391
蛇足、いや本論か
プロジェクトにおける獲得目標とは、テーマである
勝利条件とは、テーマに導かれて顕現する、コンセプトである
この文章の著者について