ポスト・ポストなコンセプト
例えば呉座勇一「一揆の原理」はゼロ年代以降の歴史観を象徴している。
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本書が論じるのは、「一揆」という言葉の意味の、そしてその現象やイメージの、歴史的変遷である。
それを、特定の史観やバイアスに縛られずに、事実を丹念に拾い集めて、フラットに観察しようとしている。そしてそこから、「現在(あるいは現代)」を見直そうとしている。
具体的には、以下のように変遷を描く。
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(中世)
①原初的な一揆
②ファッション化する一揆
(近世)
③実質的に一揆でも一揆と言えなくなる一揆
④閾値を超えて制御が困難となる一揆
(近代)
⑤プロパガンダとしての一揆のレッテル貼り
⑥一揆に対する後世的なステレオタイプ形成
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表層的に読めば、本書は「この国の人たちの、革新に対する腰の軽さは、今も昔も変わらない」という教訓を教えてくれる。その話もしてみたいところだが、本稿はもう少し深い話をしたい。
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本書が「現在」をあらわす言葉は、「東日本大震災とSNS、アラブの春」であった。もし、本書が20年代の書だったならば「コロナとAI、烏露戦争」だったことだろうけれど、もしかしたら、それは本書の基本的なメッセージには、そこまで大きく影響しなかったかもしれない。
なぜなら、本書の動機は「唯物史観と皇国史観からの脱却」だからだ。
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20年代も半ばになろうかといういまだからこそ、本書のこともまた、フラットに評価できるのだろうと思う。
(例えばこのフラット史観の象徴に「実名制により信頼が担保されたSNS」が挙げられているような箇所の当否も含めて)
本書は、唯物史観か皇国史観か、という二項対立を離脱して、フラットかつ相対的に歴史を再評価しようぜという動きのなかの、代表的な(ないし典型的な)著作だった。
それは、E.H.カーに始まる、現在を常にメタ認知しながら考えよう、というムーブメントだった。
ポスト・モダン。脱・近代。脱・構造。
相対論、量子論、進化論の三位一体により幕が開けたのが、メタの時代だった。
歴史観の脱近代化はそうした一連のポスト・モダン的現象の、諸相のひとつだった。
その表裏一体に、文化の相対化もあった。
我が国の文化におきた変化として、例えば、ゼロ年代以降、洋楽ポップソングの国内での国民的メガヒットがなくなった。
(例えばエアロスミスやセリーヌディオン、ボンジョヴィ的な。あるいはキラメキ・ンーバップやスキャットマン・ジョン、チャンバワンバ的な。90年代のFMは、アメリカ的キラキラ感の絶頂期だった!)
映画では邦画が復権した。演劇界では宮沢章夫に始まる大人計画の胎動があった。美術では赤瀬川原平らによって若冲や岡本太郎が再発見、再評価された。
趣味の世界でも将棋や俳句、短歌が見直されてきた。
これらは、単純な海外文化の排斥ではない。
古い=ダメ、新しい=いい
自国=ダサい、舶来=かっこいい
といった価値基準を、相対化する動きであったといえる。
それどころか、体制ー反体制、権威ー反権威といった対立軸すらも溶融化していった。
思想だけでなく、経済もしかりで、反権力の旗手として開始されたネットベンチャーというコンセプトも、またたくまにベンチャー金融生態系が整備されていくなかで、あっという間に権威の座に収まってしまった。
時間的にも空間的にも、ありとあらゆる価値がフラットになっていったのが、90年代後半から、ゼロ年代にかけての大きな動きであった。
そうした思想的な転換は、地球環境の変動をきっかけとした機械文明への反省とか、2回の世界大戦+冷戦への反省、ネットの登場などが大きな要因であったことは、まぁ、疑う余地はない。
我が国特有のの要素としてはバブル崩壊と長期デフレ、というところがあるのも疑いない。
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こうしたことを考えた時、いまにして思うのは、その渦中の最初期に、その嚆矢として、村上隆が「スーパーフラット」と言ったことが、いかに凄まじかったのか、ということである。
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©村上隆
当時、村上隆と並び称されたのが奈良美智だったわけだが、社会性という意味では、奈良は典型的な懐古主義的ニューアカ風反戦アーティスト、というところに落ち着いてしまったことを考えても、その現在性の強靭さは計り知れない。
自分は当時、リアルタイムでわりとその近くにいた人間だった。(東大堺屋太一ゼミ「どうして売れるルイヴィトン」への執筆参加、という意味で)
しかし、その意味にも価値にも、まったく気づいていなかった。
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とはいいながら、振り返ってみると、自分は処女作「予定通り進まないプロジェクトの進め方」のなかで「一億総プロジェクト化の時代」と言ったわけだけれども、それはまさにスーパーフラットの世界ゆえの言葉だったように思う。
この言葉を言い換えれば「一億総クリエイター」である。
フラットゆえに、誰もがクリエイションの権利を持ち、義務が課せられる時代。
LGBT的な文脈や、フリーランサーの台頭、働き方の自由化の文脈など、今日的なあらゆる現象は、まさにスーパーフラットの賜物である。
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2024年現在、スーパーフラットの結果として「沼」の時代が到来している。
文化の世界は「より深くハマった」ものがエラい、ということになった。
政治の世界はどの国内政治も、国際政治も泥沼化の一途である。
技術的には、生成AIが話題の一人勝ちになってしまったが、あれもまた、機能や利便性の存在は明らかなのに、価値を客観化できないという意味において、まさに沼的現象である。
例えばいま、宇宙産業をベンチャー化したい潮流があるが、それはこの、泥沼化への反作用である。
その心は、とにかくわかりやすくしようぜ、ということである。
杉本博司氏の「江浦測候所」もまた、まさに宇宙を地上にあらしめるという意味で、アンチ・スーパーフラット的な試みである。
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©️新素研
沼の時代は、その時代が到来してしまったら、ポストモダン的なメタ化作用によりあらゆる価値がフラット化され、あらゆる価値観が相対化されたことの、歴史的必然だったように見える。
例えば小島秀夫の 「デス・ストランディング」はこの現在を、強烈に象徴している。
デス・ストランディングの五里霧中感、紐帯への希求は、まさに現代的な、プロジェクト的な生の、とても美しい戯画化である。
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©️小島プロダクション
最後の最後に、唐突に見えるかもしれないが、そして手前味噌かもしれないが、「プ譜」はこの、思考の足場のない時代に、等身大で持つことができる唯一の「思考の手がかり」であり「他者と繋がる道しるべ」なのだろうと思っている。
最後に冒頭紹介した本の話に戻るが、一揆の本義とは、混沌の時代に、正しさのために、人と人が、つながり合い、手を取り合い、協力し合うということだったのだ。
現代が「新たな中世」だとするならば、プ譜はそこで「一揆」するための思考ツールである。
ネットとスマホにより、あらゆる認知が蛸壺化していくなかで、世界は「あらたな絶対軸」を模索しようとしている。そのコンセプトを示したアーティストが、次の時代を作る。