プロジェクトの第一義は「状況」である
プロジェクトとは、なにか。簡単に考えれば、そんなにややこしい話ではありませんが、ひとたび真剣に考え始めると、これはもう大変に深淵な問いであります。
何がそんなに難しいのか。
最大の問題は、世の中の人間の営みのほとんどのことが、大抵なんでも「プロジェクト」と言ってしまえば、言ってしまえる、ということなのです。プロジェクト、という言葉の、最も中心にある代表的なイメージとして、IT開発や建設、新規事業といったものがありますが、それにしたって扱う素材は多種多様で、世の中にある様々なプロジェクトを、ひと言で簡単に言い切ろうとすると、途方もない困難があるのです。
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プロジェクトとは、なにか。まぁ、この問題に答えがなかったとしても、世の中は大して困りません。それなりに現実的な、常識的な定義(らしきもの)や共通認識があれば、日々の仕事や生活は、それなりに回っていくものです。
しかし、この文章の筆者である私(後藤)は、ふとしたことから「予定通り進まないプロジェクトの進め方」を出版する機会を得て、それが一定の反響につながったことがきっかけとなり、以来、終生のテーマとして考え続けざるを得なくなったのです。
というのも、プロジェクトの本を出させていただき、多くの人に喜んでもらえたのは良かったのですが、かえってそのことによって、書いた当人が、プロジェクトとはいったいなんなのか、どういう事態なのか、わからなくなってしまったのです。
出版した当時から、プロジェクトと呼ばれる活動なり現象なりの多様性については、充分考えていたつもりでしたけれども、案外簡単に割り切ってしまって「ルーチンワークでない活動」という以外に、定義のしようがないものだ、そう定義しておけばよいのだ、と、考えていたのです。
その考えに誤りがあるとは思っていませんが、定義の仕方としては、すこしズルいものだったと思うのです。
だって、そうではありませんか。Aとは、非Bである、という定義は、命題としては正しいかもしれませんが、ちょっと、逃げがあります。Aとは、a1,a2,a3の要件を満たすものである、というふうに、つまり、否定文ではなく、肯定文として定義しないといけないなと、思うのです。
ルーチンワークとはなにか。プロジェクトと比較して、これは非常に定義しやすいのです。
過去に類似した、またはまったく同じような取り組みの実績が何度もある
過去の事例をもとに、成功確率の高い達成プロセスの策定ができる
取り組む前に目標設定や成功基準の策定が可能
この三要件を満たすものを、人はルーチンワーク、定型的活動、と呼ぶのです。
事業活動においても、定型業務と呼ばれる業務の一群があり、まさしくルーチンワークとは、それらの事を指します。
そして、これと対になるものとして、非定型業務、と呼ばれる業務群が存在しており、それによって新たな定型業務を生み出したり、改善したりする、ということをしています。
以下の図で、矢印で囲んだものが定型業務(ルーチンワーク)であり、丸で囲んだものは非定型業務(プロジェクト)という関係性にあります。こうしてみると確かに、プロジェクトとは、開発とか投資、調達、キャンペーン、といった言葉で形容されることが、よくわかります。
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この図を書いたときは、とてもクリアに世の中のことを表せたように感じて、気分が良かったのでした。これで、ルーチンワークとプロジェクトの違いを、少なくともビジネスプロジェクトに限定すれば、見切ることができたのだ、と。
しかし、じつとこの図をみているうちに、やはり、これでなにかがわかったような気になっているようではいけないな、という気持ちになってきたのでした。
安定した、定型業務の繰り返しと思っていたものが、突如トラブルや想定外に見舞われ、先の読めない事態に発展する、つまり平穏な日常のルーチンワークが、にわかにプロジェクト性を帯びるということは、往々にしてあります。
いや、それ以前に、建設会社やITベンダ等、プロジェクト的な仕事を定型業務として受託するのが主たる事業である、という企業もあります。
そうした企業の多くでは、本来ルーチンワークであるべき受託案件が、その規模の大きさゆえに不確実性をはらんでしまい、結果としてプロジェクト的な様相を呈する、ということが起きています。
一方で、各種の非定型業務もまた、必ずしも無から有を生み出すような劇的なものであるとは限りません。繰り返しやっていれば、ある種のルーチンとして成立する非定型業務も、あるのです。
この種の取り組みに典型的な状況として、それを進める主体者にとってはプロジェクトだが、それを手伝う外部の専門家、専門組織にとってはルーチンワークだ、ということも、よくあります。
わかりやすくいえば、結婚式を挙げる二人にとっては一大プロジェクトだけれども、それをコーディネートする専門会社にとっては定型業務である、といった話です。果たして、結婚式とは、プロジェクトなのか?それともルーチンワークなのだろうか?
なにがなんだか、わからなくなってきましたでしょうか。
筆者は、この文章をお読みくださっているあなたを、混乱させたいわけではないのです。しかし、「わからなくなってきた感覚」を、感じていただきたい、とは、思っているのです。
よくわからない、という感覚は、プロジェクトを考えるうえで、とても大切なものであるように、思われてなりません。
プロジェクトという言葉を定義しようとすることは、小説という言葉を定義しようとすることに似ています。
例えば「一億三千万人のための 小説教室」という本があります。本書を読むと、プロジェクトとはなにか、を考えることと、小説とはなにか、を考えることは、実に共通しているところが大きいと感じます。
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一億三千万人のための 小説教室 (岩波新書 新赤版 786) 新書 – 2002/6/20
高橋 源一郎 (著)
著者の高橋源一郎氏は職業小説家であるわけですが、本書の冒頭で、小説が定義できないことを丹念に説明しています。本書を読むと、定型におさまるようなもの、定義できるようなものでは、小説とは言えないのだ、という著者の心の叫びが聞こえてくるような気がします。そのことを表現するにあたって、銀河鉄道の夜の冒頭を引用しています。
この引用がまた、とても良いのです。
(以下、銀河鉄道の夜より)
「ではみなさんは、そういうふうに川だと云われたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。」先生は、黒板に吊した大きな黒い星座の図の、上から下へ白くけぶった銀河帯のようなところを指しながら、みんなに問をかけました。
カムパネルラが手をあげました。それから四五人手をあげました。ジョバンニも手をあげようとして、急いでそのままやめました。たしかにあれがみんな星だと、いつか雑誌で読んだのでしたが、このごろはジョバンニはまるで毎日教室でもねむく、本を読むひまも読む本もないので、なんだかどんなこともよくわからないという気持ちがするのでした。
ところが先生は早くもそれを見附けたのでした。
「ジョバンニさん。あなたはわかっているのでしょう。」
ジョバンニは勢いよく立ち上がりましたが、立って見るともうはっきりとそれを答えることができないのでした。ザネリが前の席からふりかえって、ジョバンニを見てくすっとわらいました。ジョバンニはもうどぎまぎしてまっ赤になってしまいました。先生がまた云いました。
「大きな望遠鏡で銀河をよっく調べると銀河は大体何でしょう。」
やっぱり星だとジョバンニは思いましたがこんどもすぐに答えることができませんでした。
(引用終わり)
この、わからない、という感覚。プロジェクトとはなにか、ということを考えるときに、この感覚こそが、もっとも大切であるように思えます。
わからない、というと、「わからなくなってきました」という本も、思い出します。
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わからなくなってきました (新潮文庫)
宮沢 章夫
本書の冒頭で、著者は、野球の解説者が、試合のクライマックスで「わからなくなってきました…!」と興奮することに対して、それは一体どういうことなのかと、問うています。
あなたは、野球の、それも、解説の、プロなんでしょう、と。その、プロ中のプロが、職務において、わからなくなって、いいのか。しかもそれを恥じるでなく、いかにも嬉しい、実に楽しい、良い気分で「わからなくなってきました…!」と叫ぶ。それで良いのか、と。
タクシーの運転手が、運転中に道がわからなくなってしまったら、困ります。なぜ、解説者の「わからなくなってきました」は受け入れられるのか、喜ばれるのか。
わからないという事態が実に似合う分野というものもあり、例えば石川啄木の有名な一句に「わからなくなってきました」と添えると、実に気持ちがいいと、宮沢章夫氏は喝破しました。
はたらけど
はたらけどど猶
わが生活
楽にならざり
ぢつと手を見る
わからなくなってきました
わかっている、わかると思っていたことが、急に、わからなくなる。わからない、ということは、人間にとっては、不安定な、不快な状態です。しかし、そのわからなさに、なんだかわからないが、知的興奮を刺激される。なんだか、ワクワクしてしまう。手に汗を握ってしまう。
わからないことの、不安と恍惚。
プロジェクトとは、そういうことではないのか。
世の中には「プロジェクトマネジメントの教科書」が数多く出版されていますが、それらにあたってみると、こうした問題を正面から扱っているかどうか、疑わしいように思うことが多いのです。疑わしいどころか、この文章の筆者であるところの私(後藤)は、強烈に違和感を持っているのです。
例えば、プロジェクトとは「ゴールがあり、有期的な、新価値創造」であるとか、「目標とするQCDの達成プロセス」である、といった表現をよく見かけます。そうした表現は、いかにも「わかっている感じ」のする表現です。
そうしたニュアンスの定義は、実に狭義のプロジェクトのことを指していて、本当に根本的な、プロジェクトという問題について考えようという人間にとっては、不満を強く感じるのです。まぁ、定義なんてモノ自体が、そもそも恣意的で勝手なものですので、極論してしまえば、誤りも正解もヘッタクレもないものですけれども・・・。
ただ、多くの教科書で言われている定義通りに考えると、プロジェクトという現象は、決して攻略できない。それだけは、確かであると、強く思います。世の中にあるプロジェクトマネジメントの解説は、実はそのほとんどが「(巨大な)ルーチンワークのさばき方」であるに過ぎないのです。
にも関わらず、得々と「プロジェクトとは」を語る、つまり、分かったフリをする態度に対して、筆者は実に心からの怒りを燃やしているのです。そのウソを、暴きたいと思っているのです。
プロジェクト工学においては、そうした妥協を意思を持って排し、より強力な定義を用いていきたいと思っています。
プロジェクトとは、ある取り組みにおいて、その主体者が、わからなくなってしまった状況である
そう、プロジェクトとは「状況」なのです。初めて直面する状況。何をどうしたら、次になにがどうなるかがわからない状況。 過去の知見や実績が参考にならない状況。
こういうふうに見立てると、世にいう「プロジェクト」が実は「ルーチンワーク」であったことが、ただちに判明するのです。
例えば、多くのIT受託開発プロジェクトや、建設プロジェクト。確かに「プロジェクト」と名前がついていますが、実際のところは、工程表の書き方も、人材マネジメントや進捗管理のやり方にも、豊富なノウハウが蓄積されているのです。
もちろん、その場所、その顧客、その時期など、その取り組みに独自の固有性がないわけではなく、その意味ではもちろん確かに、プロジェクト性を帯びた活動だとは、言えるわけですけれども。とはいえそれらは、やっぱり、本質的には、ルーチンワークなのです。
ルーチンワークとは、どんな順番で考えるのか、また、次になにをすべきかの指針や地図がたっぷりと担保された活動です。そうした活動では効率性や投資対効果が重視されるものです。また、近代以降の機械化社会では、そうした活動が世界経済の基幹産業となっていたのです。初期のPMBOKに代表されるような、計画駆動形の管理思想に全世界が染まってきたのは、そのような理由をもとにしていたのです。
参考:
ルーチンワークの世界とプロジェクトの世界を、より明確にわけて考えるために「純プロジェクト状況」という言葉を導入してみたいと思います。
純プロジェクト状況では
あらゆる思考がホワイトアウトする
なにを目標とすればよいのかがわからない
自分が何を望んでいるのかもわからない
目的や目標を仮説的に立てたとして、どう達成するのかがわからない
なにか行動を起こすと、その結果が次の制約条件となり、選択できる目的や目標の幅に影響する
つまり、主体と環境が不断に相互作用する場が純プロジェクト状況である
純プロジェクト状況において、その主体者には、野生の思考が求められます。ああすればこうなる、こうすればああなる、という、都市的な、大脳的な、因果論的な思考は、まったくもって、通じないのです。
「明日、太陽が西から昇るかもしれない」と考えなければならないのです。つまり、純プロジェクト状況に直面した人とは、望むと望まざるとにかかわらず、その時点で、哲学者なのです。
個人的な記憶ですが、小学生のころ、哲学者とは「明日、太陽が西から昇るかもしれない」と考える人だと聞いて、当時は、なんのこっちゃとしか思わなかったのですが、こうやって、プロジェクトとはなにかということを、できるだけ深く深く考えていくと、実践的に、その意味が、しみじみと分かるのです。
一般に、プロジェクトといえば、条件反射のように、ウォーターフォール、アジャイル等のプロジェクト管理手法、いわゆる「プロマネ」というものが、強く連想されるものですが
第一義として「状況」であり
主体者がその状況を解釈し、働きかけることで初めて「活動」となる
活動を円滑にするために「管理」が発生する
と、こういうふうに考えていくことが、大切であるようと思うのです。
ちなみに、正直に告白すると、最初は、プロジェクトの方が高級で、ルーチンワークとは自動化しておけばよいものだ、と、心のどこかで思っていました。ですが、以上のことを鑑みたときに、そういう考えは、違うのではないかと、そんなことも思うようになりました。
例えば民藝、例えば、本願他力。プロジェクトのわからなさは、もしかしたら、ルーチンワークの尊さとともに、考えていかねばならないのかもしれません。
この文章の著者について