不作為の美
益子に山水土瓶を画くお婆さんがある。何十年という仕事の生活の間に、およそ四百万個の土瓶に山水を描いたという。それこそ繰り返しの繰り返しだが、何辺同じものを描いても絵がだれていない。何故か、目をつぶっても描けるほどにになっている自由さが、繰り返しという倦怠さの不自由にも縛られないのである。一度一度がさながら描き初めの如き新鮮さとなって現れてくるのはそのためである。面白い出来事である。不思議にも繰り返しが、ここではやり直しではない。かえってそのままやり初めになる。普通なら嫌気がさして、投げ出したい仕事に違いない。否々、実際のお婆さんの述懐では「こんな仕事はちっともやりたかーねー」という所なのである。しかるに、やりたくてやる以上の自由さがあるのである。やりたい心などに囚われる縁がない仕事だともいえる。ここが微妙な点で「やりたくねー」仕事の間から生れる自由さの不思議をつらつら想うべきではないか。決して一つ一つがただの繰り返しではなく、一つ一つがまっさらな仕事となって生れてくるのである。事実、山水土瓶の絵を見ると、疲れた仕事とは違う。その中に疲れても疲れないものがあるのが、不思議なのである。現にとてもいきいきした絵ではないか。これは工藝の仕事に屢々見られる、反復の功徳、労働の功徳とでもいおうか。なかなか厳しい世界に生れる新鮮さなのである。
柳宗悦「美の法門」より