「疑問が見つからない」という現象の本質は、「疑問の見つけ方を知らない」という方法の有無にあるのではなく、本来は自然と芽生えてくるはずの疑問の種が、やらなければいけないことの多さや周囲からの喧騒という時間的/心理的/認知的な忙しさゆえにかき消されてしまうという環境の問題にある
しかし、この「疑問が見つからない」という悩みの本質は、残念ながら「疑問の見つけ方」を伝えたところで解消しない場合の方が多いのが実情です。
この問題の本質は、どれだけ疑問を持とうとしても、それを打ち消してしまうだけの課題が上からどんどん降ってきてしまう、ということにあります。
平たく言えば、みんな忙しすぎるのです。
だから思うように手足を動かすことができず、素朴な疑問はかき消され、イシューまで育たない。
そして、この状況で「人生100年時代だ!」「スキルアップだ!」と大きな声で言われてしまえば、疑問なんてそっちのけで、「これからの時代はどの資格、どのスクールがいいのでしょう?」という学生時代に逆戻りしたような「疑問不在のお勉強モード」に入ってしまうのです。
この根本的な状況を解消しない限り、本章で提言する「疑問主導型の独学」は絵に描いた餅になってしまいます。
「疑問が見つからない」という悩みをどういう画角から見るか。
本書では「疑問の見つけ方」という方法論を提示はしている。
つまり、「方法を知らないからできない」のだ、という論理。
しかし根本は、方法論の有無ではないのだろう。
立問の生来性と呼べばいいのだろうか、生きて世界に向きあっていさえすれば、些細ながらもいろんな疑問の種が頭をよぎるはずだ、という信念/感覚/希望が本書の根底にあるように感じる。
「疑問の見つけ方」という方法を「知らない」のではなく、「実はすでに疑問を見つけつつある」という可能性を「知らない」のだ。
その可能性を潰えさせてしまうのが、「忙しさ」という環境。
自分も他の誰かにとっての「環境」になると考えると、誰かの独学を後押しするときの自分の振る舞いがいかに大切かということ。
立問の生来性とは直接つながらないかもしれないが、誰かを後押しするときの「環境」としての自分の振る舞いという点では、これをいつも思い出す。
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