【引用】さて、ここまで定住化が人間にもたらした変化の一部をあげてきたが、本書にとって最も重要であるのは次の点だ。
さて、ここまで定住化が人間にもたらした変化の一部をあげてきたが、本書にとって最も重要であるのは次の点だ。
定住によって人間は、退屈を回避する必要に迫られるようになったというのである。
どういうことだろうか?
遊動生活では移動のたびに新しい環境に適応せねばならない。新しいキャンプ地で人はその五感を研ぎ澄まし、周囲を探索する。
どこで食べ物が獲得できるか?
水はどこにあるか?
危険な獣はいないか?
薪はどこでとればいいか?
河を渡るのはどこがいいか?
寝る場所はどこにするか?
こうして新しい環境に適応しようとするなかで、「人の持つ優れた探索能力は強く活性化され、十分に働くことができる。新鮮な感覚によって集められた情報は、巨大な大脳の無数の神経細胞を激しく駆け巡ることだろう」。
だが、定住者がいつも見る変わらぬ風景は、感覚を刺激する力を次第に失っていく。
人間はその優れた探索能力を発揮する場面を失っていく。
だから定住者は、行き場をなくした己の探索能力を集中させ、大脳に適度な負荷をもたらす別の場面をもとめなければならない。
こう考えれば、定住以後の人類が、なぜあれほどまでに高度な工芸技術や政治経済システム、宗教体系や芸能などを発展させてきたのかも合点がいく。
人間は自らのあり余る心理能力を吸収するさまざまな装置や場面を自らの手で作り上げてきたのである。
たとえば縄文人は、土器に非常に複雑な装飾を施した。
単に生きるためであれば、土器は土器として使えればよいのであり、あのような装飾は不要である。
その他にも縄文時代の定住者たちは、生計を維持するのには必要のないさまざまな物品を残した。
装身具や土偶、土版、石棒、漆を塗った土器や木器等々。
「それは石器や石屑、焼け石など、生活に必要なごく実用的な遺物の多い旧石器時代の遺跡のあり方とは、きわだった対照をなしている」。
定住民は物理的な空間を移動しない。
だから自分たちの心理的な空間を拡大し、複雑化し、そのなかを「移動」することで、もてる能力を適度に働かせる。
したがって次のように述べることができるだろう。
「退屈を回避する場面を用意することは、定住生活を維持する重要な条件であるとともに、それはまた、その後の人類史の異質な展開をもたらす原動力として働いてきたのである」。
いわゆる「文明」の発生である。
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