ジャズ・エイジ
from Jazzの歴史
ジャズ・エイジ
このような華やかなポピュラー音楽のヒット曲には、新しい黒人音楽の要素も取り入れられていました。
ヨーロッパのクラシック的な土台がありながら
オペレッタなど
当時アメリカ南部から台頭してきた
19世紀末~20世紀初頭
ジャズの発達する土壌となっていたのはニューオーリンズのストーリーヴィル
歓楽街・売春地区
1917年、突如ストーリーヴィルが閉鎖してしまいます
アメリカの第一次世界大戦参戦に伴って風紀粛清の機運が高まり
水兵たちの風紀を統率する目的があったのです。
貿易港・軍港として栄えていたニューオーリンズにて
これにより黒人音楽家たちは職場を失い、当てのない暮らしが始まってしまい、ニューオーリンズを離れてシカゴやカンザスシティ、ニューヨークへと移動していきました。
北部の軍需産業の発展に従って南部から黒人労働者が北部の大都市へと大量移動したことも関係が深いようです。
密造酒を提供するバーは「スピーク・イージー」と呼ばれ、1920年代に激増しました。
酒を注文する代わりに簡単な合言葉で話していたことから
1920年、アメリカでは憲法が改正され、いわゆる「禁酒法」が施行されます。
犯罪や暴力行為や貧困率を減らしアメリカ社会の生活水準を上げるという目的がありました。
これは飲酒を禁じたものではなく、国内でのアルコールの醸造と販売を禁ずるものだったのですが、これがむしろ“もぐり”の酒場の繁栄を助長してしまい、さらにカナダなど周辺国で作られた酒類が大量に輸入されることになってしまいました。
人々は買いだめたお酒を飲むこともでき、国内のお酒の消費量はかえって激増。
さらに、密造や密売、密輸も横行しました。
禁酒法は1933年に廃止されるまで続きました。
これに目をつけ、密造酒をもぐり酒場に運ぶ中間業者、ギャングが暗躍するようになります。
ギャングたちは密造や密売により巨大な利を得、縄張りを拡大していきました。
この時期に頭角を現し、裏社会のドンとなったのがアル・カポネです。
シカゴなどの暗黒街のボスとなったアル・カポネをはじめとする密売に関わるギャング・マフィアなどの抗争も激化し
より不健全な非合法酒場が横行する結果となってしまいました。
お酒の場ではジャズが好んで演奏され、繁栄していくことになります。
アル・カポネなどの闇の実力者たちもジャズを好み、保護していったといいます。
1920年代のシカゴ
多くのジャズクラブが開かれた
ニューオーリンズに替わって新たなジャズの拠点のひとつとして栄えていき
その音楽はシカゴ・ジャズと呼ばれました
代表的なアーティスト
ニューオーリンズで既にスタープレイヤーとなっていた演奏者がシカゴに渡って活躍しました。
キング・オリヴァー(1885~1938)
ルイ・アームストロング(1901~1971)
トランペット奏者でありながら歌手としても有名になり
“サッチモ”というニックネームで今でも親しまれています。
カンザスシティでも、ジャズが発達しました
シカゴと同じように
ギャング的勢力に街全体が牛耳られ無法地帯となっていた
闇酒場が乱立
勢いはシカゴ以上だったといっていい
大っぴらにお酒を飲むことができ
演奏も大音量が許されていたということから
のちにビッグバンドなどのその後のジャズの発展を担う多くのミュージシャンが育っていました
カウント・ベイシーなど
ニューヨークでももちろんジャズが発達していました
闇酒場・スピークイージーが万単位で存在した
ジャズ・ダンスパーティーが流行し
ナイトクラブが競って作られました
フレッチャー・ヘンダーソン(1897~1952)が自身の楽団を結成
異例の人気
加入
サックス奏者のコールマン・ホーキンス
シカゴからやってきたルイ・アームストロング
フレッチャー・ヘンダーソンはビッグバンドの創始者とまで言われている
この楽団によってジャズ・ビッグバンドのフォーマットが整えられた
20世紀初頭に広がったブルース
ジャズの他の黒人音楽
1920年にメイミー・スミスの「クレイジー・ブルース」が発表されて人気となり
これが「世界初のブルース録音」と多くの文献に記録されている
「ブルース」の語は20世紀初頭からシートミュージックとして広まっており
クレイジー・ブルース以前にも白人作曲によるブルース録音は先に存在していた
ですが、はじめての「黒人」による録音であったために、クレイジー・ブルースが文献に多く記録されていったのです。
ジャズ的
こんにち我々がイメージするようなギターをかき鳴らすような原始的ブルースではなく
編成的に初期のジャズと非常に似たものであり
楽曲構成はティン・パン・アレーのシートミュージック的であるといえます
その後登場したベッシー・スミスは「ブルースの女帝」と呼ばれました。
ジャズと背中合わせの都会的なサウンドの象徴
19世紀終盤から「ラグタイム」も、全国的な市民権を得ていました。
ナイトクラブなどで演奏されていた
スコット・ジョプリンら黒人のミュージシャンによって
「アレキサンダーズ・ラグタイム・バンド」という楽曲が大流行したことにより
若き頃のアーヴィング・バーリンが1911年に作曲した
黒人音楽の要素を取り入れてポップミュージックとして広めたのがティン・パン・アレー
ジャズ
ブルース
ラグタイム
など
さて、禁酒法時代の酒場で反映していきつつあったジャズは、上流階級にあった大半の白人の人々からしてみると、まだまだ“黒人の低俗でよくわからない音楽”という印象が拭えず、そっぽを向かれたままでした。
それが突如、マジョリティである白人社会で市民権を得て人気沸騰することになります。
そのきっかけは、ポール・ホワイトマン(1890~1967)のはたらきがありました。
ガーシュウィンは、クラシック音楽史とポピュラー音楽史の両方に(余談的ではなく)「本編」としてしっかりとその名前が残る、唯一の例
ポール・ホワイトマン
第一次大戦後にジャズに影響を受け、自身のダンスバンドを結成してニューヨークに
クラシックのデンヴァ―交響楽団のヴィオラ奏者だった
大人数で編成したジャズオーケストラによって、人気を得た
当時のオーソドックスなジャズバンドの編成に比べるとより
みるみるうちに東海岸の数々のアンサンブルを指揮するまでになります。
黒人の演奏スタイルをブラッシュアップしようとしていました。
耳を使った即興的な
クラシック的な譜面によるアンサンブルによって再び整理することで
1924年、ホワイトマンは『現代音楽の実験』というコンサートを開催することを思いつく
ジョージ・ガーシュウィンに「ジャズ風の交響曲を書いて欲しい」という依頼をしました。
ティンパンアレーの作曲家
事後報告的に
本格的なクラシック交響曲の作曲技法の知識には乏しく、困ってしまいます
それまで彼の作曲は「習うより慣れろ」という形でビジネス的な作曲ばかりを経験によって学んできていたため
『ラプソディー・イン・ブルー』をなんとか完成させました。
結局ピアノ2台を想定して作ったものを、ファーディ・グローフェにオーケストレーションしてもらう形で、
ホワイトマン楽団の編曲家を務めていた
上流階級や知識人の多かった聴衆を一気に魅了し、大成功しました。
当日ガーシュウィン自らピアノを弾いて初演された
ファーディ・グローフェによるオーケストレーションが成功の大きな一因でした。
衝撃的なクラリネットのイントロから始まり
従来のクラシックには使われないミュート・トランペットやサックスの大胆な使用など
シンフォニック・ジャズとして、西洋芸術音楽史に残ることとなった
新しい芸術音楽を模索していたクラシック音楽の楽壇は
19世紀のロマン派を否定して
“無調音楽”
“新古典派”
“民族主義音楽”など
今でも多くのクラシック愛好家は一般的にガーシュウィンをクラシック作曲家としてとらえているでしょう。
クラシック音楽史だけを追っていると、ガーシュウィンは他のクラシック作曲家と同じ並びで登場
「クラシックに、ジャズの要素を取り込んだ」という方向の記述でしか表現されません。
実際のところはガーシュウィンは先にティンパンアレーの作家であった
ジャズの発達段階においてこのような背景・経緯があった
俯瞰でポピュラーとクラシックの両・音楽史を追っていく上では非常に重要な事実でしょう
実際ガーシュウィンは、ジャズのスタンダード曲として残っている曲を多数作っています
他のティンパンアレー作曲家と同じく
現在も多くのジャズミュージシャンが演奏している
とはいえ、ガーシュウィンはこのあと、よりクラシックのスタイルを意識するようになり
オペラ作品なども手掛けるようになります
ただ、この段階のオペラ~オペレッタ~ミュージカルははっきりと境界線は無い状態
ちょうどその狭間にガーシュウィンは立っていたと言えるでしょう。
あまりにジャンルが分化してしまった21世紀現在の段階でジャズとクラシックを融合させるのとはまったく意味合いが違う
この時代だけの稀有な例です。
ガーシュウィンは名声を得てからも長年「自分はクラシック音楽を本質的に勉強していない」というコンプレックスを抱えており
アメリカに来るヨーロッパのクラシック作曲家たちに、かたっぱしから弟子入りを志願する、ということをしていたようです
特にご執心だったのが、ラヴェル
当時フランスを代表するクラシック作曲家となっていた
弟子入りを直訴した際、ラヴェルは「あなたは既に一流のガーシュウィンなのだから、二流のラヴェルになる必要はない」と言って断った、という逸話が残されています。
ともあれ、「ラプソディー・イン・ブルー」の大成功によって、アメリカの白人たちに「ジャズ」がはじめて好意的に認知されることになったのでした。
シンフォニック・ジャズは、本物のジャズとは異なるものでしたが、白人たちにとっては新鮮な刺激となり、「これこそが本物のジャズだ」といった音楽評論家もあらわれるほどだったといいます。
それ以降、ジャズは本物であろうとなかろうと部分的であっても、黒人のリズム感や楽器の奏法などが新しい魅力の音楽として急速に市民権を得ることとなります。
ちょうど1920年から急発達したラジオによってもジャズ、ブルース、ミュージカル音楽は拡散し、新しい音楽文化の繁栄を後押ししました。
ポール・ホワイトマンはメディアに「キング・オブ・ジャズ」と呼ばれました。
ガーシュウィンをも巻き込んだジャズの洗練化と拡散の功績によって
しかし、その割にはホワイトマンは影が薄いのも事実です。
現在、ジャズ史にフォーカスして追っていった場合
ポールホワイトマンは白人のクラシック側からのアプローチをしていたため、その視線を批判されるべきとされているのではないでしょうか。
“黒人土着のものを尊重しルーツとするべき”という風潮のあるアメリカ・ポピュラー史においては
シカゴ・ジャズやカンザスシティ・ジャズといった黒人たちの「ホンモノ」のジャズに比べて
《のちのメディアはホワイトマンを「キング・オブ・ジャズ」と呼んだことは誤りであったと自嘲的に語ることになった》などという記述もあります。
「ローリング・トゥエンティーズ(狂騒の20年代)」の文化・世相を指して「ジャズ・エイジ」と呼ぶまでになった
第一次大戦終結後の空前の好景気によって若者たちが新しい文化を謳歌
最先端の流行音楽としてジャズダンス・ホールが盛んに
享楽的な都市文化が発達、大量消費時代・マスメディアの時代の幕開けでもあった
1925年にマイクロフォンによる電気録音が登場
それ以前のサイレント映画から音声付きのトーキー映画が登場
世界初の長編トーキー映画「ジャズ・シンガー(1927)」
そのタイトルの通りジャズを題材とした音楽映画で大成功
この映画の音楽もまた、ティン・パン・アレーのアーヴィング・バーリンが担当