Jazzの歴史
#音楽史
Jazzの歴史
ジャズの歴史・前編(初期ジャズ~フュージョン誕生まで)|音楽史note(by JUN)
アーリージャズの歴史
【1940年代】モダン・ジャズのはじまり -「ビバップ」
「ジャズの歴史」
ニューオーリンズやシカゴでの黒人ブラスバンドから確立
20年代にはティン・パン・アレーのポップスの流行も含めて「ジャズ・エイジ」と呼ばれるほどの人気となり
30年代にはダンスミュージックとしてスウィングジャズの全盛期となった
1940年代に大きな転換点
ダンスバンドとしての演奏に飽き足らなくなったミュージシャンたち
「ジャムセッション」というものを夜な夜な行うようになりました。
その場だけのメンバーで即興演奏をする
お店でのお金になる「わかりやすいスウィングジャズ」のステージを終えた後に
曲のメロディーはあくまで「合図」であり
譜面に書かれたままの演奏をするのではなく
そのコード進行をもとにして各奏者それぞれが競い合うように即興演奏を繰り広げる
ミュージシャン同士の激しい競争の場と化していた
聴きなれた曲でも恐ろしく速いテンポで演奏したり
別のキーで始めたり
同じ進行であっても置き換えられる別のコード(代理コード)を使うことで響きを複雑化させていくなど
「ミントンズ・プレイハウス」というジャズクラブが発祥したといわれている
ニューヨークのハーレム地域にあった
次第にいろいろなお店で終演後にジャム・セッションが盛んに行われるようになりました。
このようにして生まれた音楽スタイルがビバップ(「ビー・バップ」や、単に「バップ」ともいわれる)と呼ばれるようになりました。
アルトサックス奏者のチャーリー・パーカー
「ビバップの創始者」「モダンジャズの父」「ジャズの革命児」など
ビバップを形作っていったプレイヤー
チャーリー・パーカーとともに
ディジー・ガレスピー(Tp)
バド・パウエル(Pf)
ケニー・クラーク(Dr)
セロニアス・モンク(Pf)ら
ビバップがジャズの主役になっていきました。
第二次大戦後、急速にポピュラリティを失ったスウィングに代わって
この「ビバップの誕生」から1970年頃の電子楽器との融合までの期間をモダン・ジャズと呼びます
アーリージャズと区別
「アンサンブル中心のビッグバンド」から「即興演奏中心の少人数のコンボ編成」へと変化したことで、「踊るための音楽」から「座って鑑賞すべき音楽」へと変化し、ジャズは「娯楽・芸能」という立ち位置から「芸術」としての地位へと変わっていきつつありました。
実は、スウィングを引き継ぎ、規模縮小されながらも小コンボ編成にてダンス・エンタメ路線のジャズバンドは継続していたといいます。
そのようなバンドはブルースのフィーリングを強めており
「R&B」として多くの黒人聴衆もむしろそちらを好んで聴いていたようです
が、「ジャズ史」の記述からは忘却されていきました。
「スウィングジャズからモダンジャズへ」という革新的な進化のストーリーを前に
このような「黒人大衆音楽」をジャズという分野に入れることをせずに排除し、大衆路線をきっぱりと捨てた「ジャズ」
このあと独自発展していき、ジャズ史的にはこのあとの時代のほうが最盛期となる
「ロック史」からは、ジャズが「ロックの誕生のマエフリ」という位置づけに収まってしまっています
現在のポピュラー音楽史の主流の視点であるロック音楽
ブルースやゴスペルとともに
スウィングまでの大衆ジャズをもって
ビバップ以降のジャズについてはそこまで言及されることはなく
このズレが、現在においてもジャズとロックの価値観の差となっている
ビバップはミュージシャンどおしの技量試し・スポーツ的な要素が特徴でした。
【1940年代末~1950年代】クールジャズ、ウエストコーストジャズ、ハードバップ
スタン・ケントンはジャズアンサンブルを「純粋なコンサート・オーケストラ」にしようと努めていました。
ダンスのためのバンドではない
自らの音楽をプログレッシブ・ジャズと呼びました。
スウィングジャズが衰退し、小コンボ編成の演奏が主流となっていた中で
ビッグバンドを継続し、クラシック的な理論やハーモニーを強調して
結果的にジャンルとして確立されるまでには至りませんでした
が、白人ミュージシャンの多かった西海岸のジャズの形成に大きな影響を与えました。
ニューヨークなど東海岸で熱い演奏を繰り広げられていたビバップと対比
マイルス・デイヴィス
ビバップを牽引した巨匠プレイヤーたちの中で揉まれながら食らいついて奮闘していた、若手トランペッター
チャーリー・パーカーら先輩プレイヤーのもとで修行をしていました
が、次第に独自のサウンドを追い求めるようになります。
ジャズの音楽理論の洗練化を試みました
アドリブの長さや音を整理し、編曲という形で
ビバップの音楽的要素を受け継ぎながら
1949年~1950年に録音された「クールの誕生」というアルバムでそれが一つの形に結実します。
編曲家のギル・エヴァンスとともに作り上げられ
クール・ジャズ
当時のジャズ界への反動としてとらえられました
スタンケントン楽団のサウンドや、マイルスの室内楽的なサウンド
ビバップのインパクトによって即興演奏一辺倒の風潮に包まれていた
統率の取れた白人寄りのサウンド
リー・コニッツ(A.Sax)
スタン・ゲッツ(T.Sax)
レニー・トリスターノ(Pf)
ムーブメントは1940年代の終わりから1950年代の初めにかけてのわずかな期間
次に西海岸ではウエストコースト・ジャズとよばれるスタイルが誕生することに
そのクール・ジャズの影響を強く受け
西海岸には実力のある優れた楽器演奏者たちが集まるようになっていました
1950年に勃発した朝鮮戦争においてロサンゼルスが太平洋岸の拠点になったことによる軍事景気の影響
ハリウッド映画産業の隆盛によるサウンドトラック録音などの音楽産業の活況
彼らはスタジオでの仕事を終えると、夜にジャズクラブで盛んにジャム・セッションを行っていたのです。
譜面に強かった彼らは、オリジナルを書いたり、抑制のきいたアレンジをしたりして、ビバップの手法を取り入れながらも、マイルス・デイヴィスが示したクール・ジャズにも影響を受け、より洗練された知的なスタイルを作り上げていきました。
ウエストコースト・ジャズの中心的な存在となっていたミュージシャン
チェット・ベイカー(Tp./Vo.)
アート・ペッパー(Sax)
ポール・デスモンド(Sax)
シェリー・マン(Dr)
ジェリー・マリガン(B.Sax)
モダンジャズの歴史はこうして、二面性を抱えることに
「黒人的で熱い即興」
「白人的で落ち着いた洗練」
ビバップの“第一波”が下火になっていく
1955年にチャーリー・パーカーが死亡
その後を引き継ぐ若手のジャズ・ミュージシャンたちは、自分たちのスタイルを探るようになります。
ハード・バップ
即興演奏の側面を受け継ぎつつもメロディアスでブルージーな要素を共存させようと取り組みました。
演奏テクニックだけを競う面が強くなりすぎた初期ビバップに対して
リズム&ブルースなどのサウンドにも影響を受け
モダンジャズの中心的なサウンドとして「ジャズの王道」になっていきました。
黒人ミュージシャンたちが集まり、様々なメンバーで互いにセッションしながら、ライブや録音を重ねていきました。
クールジャズを示した後ニューヨークの中心的存在となっていたマイルス・デイヴィスのリーダーによるバンド
ドラム奏者のアート・ブレイキーによるアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズ
ミルト・ジャクソン (ヴィブラフォン)
ケニー・クラーク(Dr)によるMJQ(モダン・ジャズ・カルテット)などのバンド
【ハード・バップの代表的ミュージシャン】
マイルス・デイヴィス(Tp)
アート・ブレイキー(Dr)
ソニー・ロリンズ(Sax)
クリフォード・ブラウン(Tp)
マックス・ローチ(Dr)
ソニー・スティット(Sax)
ジョン・コルトレーン(T.Sax)
チャールズ・ミンガス(Ba)
デクスター・ゴードン(T.Sax)
レッド・ガーランド(Pf)
ハンク・ジョーンズ(Pf)
エルヴィン・ジョーンズ(Dr)
ポール・チェンバース(Ba)
ケニー・ドリュー(Pf)
ウィントン・ケリー(Pf)
ケニー・クラーク(Dr)
ファンキー・ジャズ
ハードバップの中でも黒人性が強いと受け取られたもの
ブルースフィーリング
ゴスペルミュージック
ソウルミュージック的な要素など
マイルス・デイヴィス
後にジャズの帝王と呼ばれることに
ハードバップより次の段階のジャズのジャンルを次々と開拓していったことで
ハードバップ期のマイルスについて
1950年代の「第一期黄金クインテット」
「ハードバップ期」の演奏メンバー
メンバー
ジョン・コルトレーン(Ts)
レッド・ガーランド(Pf)
ポール・チェンバース(Ba)
フィリー・ジョー・ジョーンズ(Dr)
1956年にプレスティッジからコロムビアへ移籍
移籍第一弾のアルバム「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」を発表します
一方で、その前に契約していたプレスティッジとの間にはまだあとアルバム4枚分の契約が残っていたのでした。
「前期4部作」
たった2日間で、すべてワンテイクでレコーディングを行ってしまいます
伝説の「マラソン・セッション」と呼ばれる
アルバム4枚分24曲
契約を済ませるために
『Cookin' 』
『Relaxin'』
『Workin' 』
『Steamin' 』
1956年
プレスティッジは1年ずつ分けて発表
モダン・ジャズには、ラテン音楽の影響もありました
アフロ・キューバン・ジャズ
キューバン・ミュージック
30年代にはルンバ
40年代~50年代にかけてマンボ
欧米に輸出されて人気となっていましたが、
キューバ音楽がジャズ・ビバップへも影響を与え
スタイルが融合して
としてジャズで演奏されるリズム・スタイルの1つになりました。
所変わってブラジル
若者にはジャズやアメリカンポップスが人気となってしまっていました
カーニバルで演奏されていたサンバはウケが悪く
サンバに対抗するようにボサノバというスタイルが新たに誕生します
白人中産階級の学生やミュージシャンたちによって
リオデジャネイロのコパカバーナやイパネマといった海岸地区に住む
優しくギターを鳴らしながら小さな声で歌ったことでこのようなスタイルが生まれた
サンバの作曲時に
大きい音が出せないアパートで
サンバの洗練化と捉えられた
特にアントニオ・カルロス・ジョビンとジョアン・ジルベルトによる楽曲が大ヒット
ボサノバもまた、このあとジャズと結びついていくことになります。
【1950年代末~1960年代初頭】モード・ジャズの誕生とファンキージャズ
ジャズの歴史も、実際には同時並行的に演奏や録音が行われていたにも関わらず、一般的にマイルス・デイヴィスという偉人が辿った音楽理論と音楽スタイルの急進的な進化になぞらえて、ジャズ史全体の時代区分とスタイルが語られています
クラシック音楽史が、実際にはフランスやイタリアでの大衆文化的なものや、ウィーンのダンスミュージックなど、そしてドイツでの哲学的なもの、というように、一筋縄では語れない多様性があったにもかかわらず、ドイツ人を軸にした「バッハ → ベートーヴェン → ワーグナー → シェーンベルク」という音楽理論上の一直線の物語に強引になぞらえて語られてきたように、
そして、「クラシックが数百年かけて辿った道のりと同じ進化を、ジャズはわずか数十年で推し進めてしまった」と言われるように、クラシック史とジャズ史は音楽理論的に類似の変遷が見られます。
マイルスは、1950年代末にモード・ジャズというスタイルを試みるようになりました。
1940年代から1950年代にビバップ、クールジャズ、ハードバップ、というふうにジャズのスタイルを更新していった
コード進行によるアドリブソロの生成に限界を感じていたマイルスらジャズミュージシャン達は、より新しい方法でアドリブソロを生み出せるように考え始めたのでした。
モダンジャズでは、曲の始めと終わりに合図として「テーマ」が演奏されますが、その間に挟まれた、演奏のメインとなる各楽器のアドリブ・ソロは、その題材となる曲のテーマのコード進行が繰り返され、そのコード進行やコード分解に基づいて即興演奏が行われます。
結果、取り入れられたのが、古い教会音楽で使われていた旋法(教会旋法 = チャーチ・モード)を用いることだったのです。
ここでは、もう少し音楽理論的な部分に踏み込んで解説してみたいと思います。
基本的に和声法やコード理論というものに共通する骨子として、「ケーデンス(カデンツ)=終止形」という“型”があります。
クラシック的な楽典や、ポピュラー作曲理論、そして、バークリー音楽大学を中心に確立したジャズ理論まで
一番シンプルな例としては「お辞儀の和音」がイメージしやすいでしょう。
これを音楽理論的な数字で表したとき、Ⅰ - Ⅴ - Ⅰ(1度→5度→1度)という分析になり、それぞれの和音の役割・性格として
Ⅰ=トニック(安定)
→ Ⅴ=ドミナント(トニックへ戻したい力が働く)
→ Ⅰ=トニック(安定)
という解釈をします。
ドミナントからトニックへと進行することを「解決する」といいます。
こういった、和音の役割(「機能」)を体系的に捉える音楽理論が機能和声
モーツァルトやベートーヴェンなどの「古典派」の段階で特に忠実に用いられ
その後のロマン派でも転調などを巧みに組み合わせることで応用・発展されていきました。
ジャズっぽさ、オシャレっぽい響きというものが成立していきました。
和声的にはこういった骨組みを基本としていて
ブラス・バンドから
ニューオーリンズ・ジャズ、
スウィングジャズに至るまでのアーリー・ジャズも
それぞれの和音に「飾り付け」が施されることで
ブルーノートといったブルースフィーリングの音程が入るなど
構造の複雑化
ジャズでは 【Ⅱ - Ⅴ - Ⅰ (ツーファイブワン)】というフォーマットが進行の基本
この基本の進行の型を組み合わせ、代理のコードに置き換えたり、転調を重ねたりして、
ビバップなどのコード進行主体の即興演奏では
クラシックでいうところのロマン派中期の和声の複雑化と同じ傾向と言えます。
その複雑化がとことん極められた結果、行き詰まりを見せたのです。
たとえば、1959年に発表されたジョン・コルトレーンのアルバム「ジャイアント・ステップス」の同名表題曲
ハイテンポで、1コーラス=16小節中に、長3度という珍しい転調を10回行う
ツーファイブの組み合わせと転調の極限状態を提示してしまいました。
これは、ワーグナーがトリスタン和音を提示して以降、末期ロマン派にかけての和声の行き詰まりの兆候と非常に似た流れだと思います。
そして、この時期に、機能和声的なコード進行ではない、進行感・解決感を排除した色彩的なスケール(音階)中心のモーダルな音楽の研究が進められていく
そのアイデアがマイルス・デイヴィスの1959年のアルバム「カインド・オブ・ブルー」で提示されたのでした。
音楽教授のジョージ・ラッセルや、ジャズプレイヤーのマイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーン、編曲家ギル・エヴァンス、そしてピアニストのビル・エヴァンスらによって
このアルバムの成功により、マイルス・デイヴィスは完全にジャズ界におけるリーダーとして君臨することになりました。
これによって、1960年代からのジャズの方向性が示されたとされ、モード・ジャズの始まりとなったのです。
ジャズにおける「コードからモードへの変化」は、クラシック音楽史において「機能和声中心のロマン派の行き詰まりに対し、ドビュッシーが教会旋法や全音階を導入してフランス近代音楽を開拓した流れ」と全く同じだといえます。
実際、このアルバムにおいて、クラシックの知識を持った白人ピアニストのビル・エヴァンスの起用が大きな役割を果たしていました。
当時、ジャズは黒人の魂だとされ、黒人トランペッターのマイルスが白人ピアニストを雇ったことについて激しい批判が浴びせられてしまいましたが、マイルスは「いいプレイをする奴なら、肌の色が緑色の奴でも雇うぜ」と返したといいます。
ビル・エヴァンスはカインド・オブ・ブルーへの参加と前後して、自身のピアノトリオでの活動での表現を始め、ベースのスコット・ラファロとドラムのポール・モチアンとの積極的な相互作用や楽器間の会話がインター・プレイというスタイルと呼ばれて評価され、他のジャズミュージシャンへ大きな影響を与えました。
さて、ジャズ史では1959年の「モード革命」が1940年頃の「ビバップの誕生」と同じように非常にセンセーショナルな出来事として記述され、50年代までがバップの時代、60年代以降がモードジャズの時代、とわかりやすく切り分けられることが多いですが、ビバップから発展したハード・バップというスタイルもむしろ1950年代後半に成立したばかりであり、60年代においてもまだまだ隆盛を見せています。特に、ブルースやソウルの要素が強調された「ファンキー・ジャズ」は60年代、モード・ジャズと並行して栄えていました。
【ファンキー・ジャズの代表的アーティスト】
ホレス・シルヴァー(Pf)
キャノンボール・アダレイ(Sax)
ナット・アダレイ(Cor.)
リー・モーガン(Tp)
ハンク・モブレー(T.Sax)
カーティス・フラー(Tb)
ケニー・ドーハム(Tp)
ボビー・ティモンズ(Pf)
ケニー・バレル(Gt)
ジョー・ザビヌル(Pf)
また、ファンキージャズでは、キックとスネアがビートを担う8ビート風味のリズムへ変化していく兆候も見られます。
スウィングから続いていた、ライドシンバルが主体の「4ビート」「シンバル・レガート」と呼ばれるドラミングから
同時期のソウルやロック・ポップに起こったリズム面の変化と同現象と見ることもできますし
ビバップ期からみられていたラテンのリズムでのアフロ・キューバンジャズの影響ともいえます。
その延長としてボサノバなどのリズムが入ってきたことの
ボサノバは、コパカバーナ地区のバーやクラブで発展
セルジオ・メンデス、バーデン・パウエル、アイアート・モレイラといった若手ミュージシャンによって盛んになっていました。
ウエストコーストジャズのサックス奏者として活躍していたスタン・ゲッツが1960年代に入り積極的にボサノバを取り入れ始めました。そして、ジョアン・ジルベルト、アントニオ・カルロス・ジョビン、アストラッド・ジルベルトといったボサノバミュージシャンを迎えて制作され1964年に発表された「ゲッツ/ジルベルト」というアルバムが大成功し、アメリカにボサノバブームが巻き起こしたのでした。
このように、ボサノバはモダンジャズと密接に関連した音楽となったのですが、ブラジルでは軍事政権がスタートし、退潮していってしまいました。
ところで、モダンジャズでは楽曲は「題材・合図」であり、楽曲の大半以上が即興演奏中心であるという特性上、オリジナル曲が書かれていたのと並行して、ビバップ期からモードジャズに至るまで、ミュージカル曲や映画音楽発のポップス曲、ディズニーソングなどの楽曲も積極的に採用して演奏されてきました。ジョン・コルトレーンの「My Favorite Things」や、ビル・エヴァンスの「Someday My Prince Will Come」は特に有名です。また、同時期の映画『酒とバラの日々(1962)』のテーマ曲も、数々のジャズミュージシャンに演奏されるジャズスタンダード曲となりました。
【1960年代】フリー・ジャズ
1960年代のモダン・ジャズの情勢は、二つの潮流があるといえます。
ソウルフルな「ファンキー・ジャズ」の人気
機能和声からの解放へと向かった「モードジャズ」
フリー・ジャズが誕生することになります。
リズムやハーモニー、調性にとらわれず、ひたすら自由に演奏すると
商業的な成功を度外視し、先鋭的な表現を求める動きもさらに加速した結果
演奏者にかなりの力がないと単なるデタラメに聴こえてしまうという危険性も孕んでいました。
自由度が高すぎるため
代表的なアーティスト
オーネット・コールマン
チャーリー・ヘイデン
ドン・チェリー
ローランド・カーク
アルバート・アイラー
セシル・テイラー
スティーブ・レイシー
ファラオ・サンダースなど
既存の方法から脱却し革新を求めた結果、前衛に行き着くというのは一つのパターンなのかもしれません。
これはクラシック史で、シェーンベルクの「無調音楽」「現代音楽」に行き着いてしまったのと同じ現象のように思えます。
ロマン派からの脱却を追求した結果、近代音楽の誕生から時間を待たずに
絵画における表現主義運動や、公民権運動といった社会運動とも結びつき、「自由を求める改革運動全般」とも繋がったムーブメントとなっていった
「フリー」の意味するものはそもそも、音楽理論・音楽手法的な「モダン・ジャズ、モードジャズあたりからの自由」という意味だった
【1960年代】ポスト・バップの発生(もしくは「新主流派」)
基本的には60年代は「モード・ジャズ」と「ファンキージャズ」が2つがジャズの柱だったといえるでしょう。
公民権運動の高まりを受けて、ジャズ界では「自由」というキーワードと前衛表現が結びついた「フリージャズ」が先鋭的なムーブメントとなっていましたが
ジャズ史の物語が、マイルス・デイヴィスを軸に語られていることをここまで触れてきました。
「バップからモード、そしてその次の段階へ」という方向での
1950年代のハードバップ期には、マラソンセッションも伝説となった第一期黄金クインテットで録音を重ね、その後マイルスバンドの演奏メンバーは流動化。
1959年のアルバム「カインド・オブ・ブルー」から試みられたモードジャズへの移行においては、クラシックの素養を持つ白人ピアニストのビル・エヴァンスが重要な役割を果たしたことも書きました。
コードからモードへの移行において、ドビュッシー以降の近代音楽と同じく、「機能和声」「調性感」からの解放が特徴だということも説明しましたが、ここで注釈を入れると、1959年のこの段階においては、「アドリブ演奏のアプローチのしかたがコード進行から音階(モード)へと変わっただけ」であり、楽曲としてはまだまだわかりやすい調性感が残っているといえます。
逆にモードジャズというジャンルの特徴が分かりにくくなってしまっている
時代区分として「モード → フリージャズ 」と一方向的に捉えたとき
モーダルなアプローチで作曲されていて、ビバップのように激しさのある楽曲も存在しているのです。
モードジャズの代表作としてこの「カインド・オブ・ブルー」だけが注目されてしまいがちなため
「モードというのは大人しい感じ」というイメージで捉えてしまっているジャズファンもたくさんいる
音楽理論上のアプローチの仕方である「モード」に、激しさ/大人しさという軸は実は関係ありません。
そのように、アコースティックなジャズにおいて、楽曲全体で機能的なコード進行を崩してモードなどの音階を中心に作曲される「モードジャズ」の作風は、2020年代の現在まで豊かに発展して続いていますが、そんな「モードジャズの典型」が確立されたのは、むしろここから紹介する60年代後半の音源においてなされていったのだといえます。
それを推し進めていったのが、1964年からメンバーが固定化された、マイルスの「第二期黄金クインテット」なのです。ハービー・ハンコック(Pf)、ウェイン・ショーター(Sax)、トニー・ウィリアムス(dr)、ロン・カーター(Ba)、というメンバーが迎えられたのでした。
このメンバーで発表された『E.S.P.(1965)』『マイルス・スマイルズ(1967)』『ソーサラー(1967)』『ネフェルティティ(1968)』という4枚のアルバムが、マイルス・クインテットの「後期4部作」と呼ばれて評価され、残っています。以下の音源を聴いていただくと、徐々に和声感・コード進行感が崩れていく感じがわかると思います。
このような音源でみられる和声感覚が、従来の機能和声を否定していった近現代クラシックのハーモニー感覚と非常に類似しています。
フリージャズのようにひたすら無秩序で前衛であるだけというわけでも無く、ビバップやファンキージャズのような従来の手法でもない、絶妙なバランス感覚で成り立っていた、モードジャズの発展形を、日本のジャズ評論では「新主流派」と表現されます。
このあとジャズ史はロックやファンクと融合して「フュージョン」という方向へ向かっていくのですが、「新主流派」という言葉は、バップとフュージョンの間に挟まれた、この「60年代後半のムーブメント」だけに限定する意味合いが強いため、70年代以降も引き続いたこのような路線の音楽を指し示すことが難しくなってしまいます。
分け方として、スウィングジャズまでのアーリージャズと、40~60年代のモダンジャズ、70年代以降のフュージョンという大分類になるのです。
https://gyazo.com/ea0b50c9041675d60aff69088e332e57
ところが英語圏では近年、60年代以降のモーダルなジャズを総称して「ポストバップ」というジャンルで指し示すようになってきたといいます。
この概念を用いることで僕は、この後のフュージョンをジャズのサブジャンルではなく、新しい1ジャンルと見なし、それと同時並行で2020年代まで続くアコースティック・ジャズも認めて俯瞰で分類することができる、非常に良い概念だと思いました。
したがって、この記事ではこの「ポストバップ」という言い方を採用したいと思います。
https://gyazo.com/cbe75c7742bc204b7d6500f7d7e5f16b
さて、マイルスバンドにおいて、50年代に第一期クインテットに招かれたメンバーが各自それぞれ、ハードバップを牽引するミュージシャンとして活躍したのと同じように、第二期クインテットに招かれたメンバーたちも、ポストバップを牽引する存在に成長していきます。
1965年1月に録音された『E.S.P.』から、1966年10月に録音された『Miles Smiles』までのあいだ、実はマイルスは股関節痛の悪化で手術などすることになり、入退院をくりかえし、活動を休止していました。
そのあいだにも、マイルスバンドメンバーをはじめとした新感覚の若手ミュージシャンたちは、各自の活動や録音を進めています。
このようにして、1965ごろから展開していった新感覚ジャズが、「新主流派」もしくは「ポスト・バップのはじまり」「モードジャズの発展形」だと言えるのかもしれません。
先述したとおりマイルスバンドのハービー・ハンコック(Pf)、ウェイン・ショーター(Sax)、トニー・ウィリアムス(dr)、ロン・カーター(Ba)をはじめとして、フレディ・ハバード(Tp)、マッコイ・タイナー(Pf)、ジョー・ヘンダーソン(Sax)らが活躍しました。
(また、この時期、彼らに遅れてチック・コリア(Pf)が同じ路線でデビューしていますが、タイミングとしてはこのあとすぐに電化の波にのまれていくことになります。)
【1960~70年代】電化していくマイルス
さて、「後期4部作」を発表した後、マイルス・デイヴィスはジェイムズ・ブラウンやスライ&ザ・ファミリー・ストーン、ジミ・ヘンドリックスといった、同時期のロック、ファンク、R&Bに関心を持つようになります。
そして、1968年の『マイルス・イン・ザ・スカイ』というアルバムでついに、8ビートのリズムとエレクトリック楽器を導入したのです。
既存のクインテットメンバーに加えてギタリストにジョージ・ベンソンを迎え、ロン・カーターにはウッドベースだけでなくエレクトリック・ベースを、ハービー・ハンコックにはアコースティックピアノだけでなくエレクトリックピアノを弾くことを要求したのです。
ただ、このアルバムにおいては、アコースティック編成も混ざっており、エレクトリック・ジャズへ移行し始めた最初のアルバムであると同時に、マイルスのアコースティック・ジャズとしての最後のアルバムだとも言えます。
また、電化していくと同時に、プロデューサーのテオ・マセロによる積極的なテープ編集もなされるようになりました。
何の先入観もなく「ジャズとロックの融合」というと、現在に生きる我々はもっと違ったサウンドをイメージするかもしれません。
しかし、この時代において、ジャズが「フリージャズやポストバップ」といった、難解なハーモニーや前衛的な空気感があったことと、同時期のロックというのがLSDに影響を受けた「サイケデリック・ロック」であったという、この時代ならではのカオスな状況下での融合であった、ということを頭に入れてから聴くことではじめて、このようなサウンドが解釈可能になるでしょう。
1969年、「In A Silent Way」でこの方向性がさらに推し進められ、ギターにはジョン・マクラフリン、オルガンにジョー・ザビヌル、エレピにはハービー・ハンコックに加えてチック・コリアが迎えられ、電化ジャズの先駆けとなる作品になりました。
16分のハイハットが刻まれる中で、ひたすらワンコードで即興演奏が進むさまは、ファンクの影響も強いと言えるでしょう。
そして、1970年のアルバム「ビッチェズ・ブリュー」で、ジャンルの融合が完全に確立されたとされます。
このアルバムはジャズ界に革命をもたらした大問題作として、賛否両論を巻き起こしました。
録音には15人が参加し、複数人のエレピやドラムが左右のチャンネルに振られ、コンガやバスクラリネットなども入り、さらに自身のトランペットにはワウ・ペダル(エフェクター)を取り付けるなどして、サイケデリック・ロックやファンクに対抗できるようなサウンドを目指したのです。
ジャズ史上では、このアルバムをもって「フュージョン」の段階に進んだとされます。
ただ、当時はジャンルの掛け合わせである「クロス・オーバー」という言い方がされました。
さらに、音源をよく聴けばわかることですが、この時期にマイルスが目指したサウンドは、このあと主流となるフュージョンというジャンルの方向性とは若干異なり、ファンクやサイケデリック・ロックと、ポスト・バップやフリージャズの要素をすべて詰め込んで好き勝手に混ぜ合わせた、形容しがたい独自の「マイルス・ミュージック」であるといえるでしょう。
ともあれ、1960年代後半~1970年代前半にマイルスバンドに招かれて演奏した「マイルスバンド出身者」「マイルス卒業生」たちが、それぞれの活動において、クロスオーバージャズ/フュージョンという分野をさらに開拓していき、新しいジャズ界を形成していくことになります。
ビバップ、クールジャズ、ハードバップ、モードジャズ、フュージョン、とジャズの主要なジャンルの発展がすべてマイルスの先見性によって進められたため、マイルスはジャズの「帝王」と呼ばれるようになったのでした。