悪の根源の探究
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今こそアーレントを読み直す
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人類史上未曾有の戦争犯罪
裁判を傍聴したハンナ・アーレント
彼は残虐趣味を持っている極悪非道な異常者ではなかった
陳腐な人間であり、平凡な市民だった
同じような立場に立たされたら、誰もがアイヒマンになりうる
アイヒマン論争
出版された当初から大きな反発を受け、大論争を巻き起こした
「前代未聞の悪いこと」をする人間には何らかの人格的欠陥があり、普通とは違う異常な判断・振る舞いをすると想定したがる 「問題になっている悪者」と「この私」の違いを認識し、安心して悪者を糾弾したがる
もし「私」と「悪者」の間に共通要素があるとすれば、「私」が「悪者」を糾弾している論理によって、いつか「私」自身も糾弾されることになるかもしれないので、不安になる。というより、糾弾している「私」の論理が、「私」自身にそのまま当てはまってしまうかもしれない。そのことが分かっていて内心びくびくしているからこそ、「悪者」の「人格」の内に、(私のような)「普通の人間」には見られない”悪の根源”のようなものを見出そうとするのである。
際立って異なっている「他者」との対比を通して、「私」あるいは「私たち」のアイデンティティを確認するというのは、まさにアーレントが『全体主義の起源』で論じた、全体主義が生成するメカニズムである。全体主義という、いわば”究極の悪”とも言うべきものを糾弾しようとする「私(たち)」の営みが、全体主義に似てくるというのは非常に皮肉な現象である。 https://gyazo.com/54cdb31e53030e6e580a1e7cae6cdd16https://gyazo.com/54b96b51eb50045e7acbd509b53718c9
普段、”私の自発的な意志”だと思っているもののほとんどが、外界からの影響や、身体の生理的な欲求の複合的な効果として説明できる 食欲
空腹という生理的な欲求によって発生している
名誉欲
他の人間に名誉という観念を教えてもらった、外からの影響によるもの
一度経験すると、快楽が得られることがわかり、生理的な欲求とそう変わらなくなる
自由意志なんてものは存在せず、物理的な刺激に対して因果法則に基づいて機械的に反応しているだけだとしたら、機械や動物と同じであるので「責任」という観念は無意味になる 自由意志があるということにしないと「責任」という観念が崩壊してしまう
自由意志の存在を証明できないことが分かっているにも関わらず、自由意志があるかのように振る舞わなくてはならないという論を展開している
一方で、純粋な自由意志がもしあるとすれば、いかなる現実的な理由とも関係なく、全くもって自発的・無条件に「私は~したい」という形で生じてくるはずである
しかし、「私の意志」はいかなる原因も理由もなしに生じてくるというのであれば、それは「私の意志」が、サイコロの目のような全くの「偶然」によって定まっていると言うのに等しいと思われる 自由の深淵
「自由意志」が実在しないと考える場合でも、実在すると考える場合でも、「意志の主体」としての「私」はそもそも何なのか、「私」は何によって「私の意志」を定めているのか、よく分からなくなってくる。 アドルフ・アイヒマンには結局、「自由意志」は、そして「責任」は、あったのか?なかったのか?yuiseki.icon https://gyazo.com/92f1e04cf939548447ffcfb4321dbc50
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人間の努力は彼の救済のために役立つ
キリストの死の功業にもとづいた教会の「秘跡」と呼ばれる一連の儀礼によって罪人は救われる
人間のなすべきことは、人生の岐路において正しい選択肢を選ぶように努めることである 間違った道を進み、間違った行いをすれば、後悔し罪悪感に苛まれる 罰を受けるなら、あるいは努力して功徳を積むのなら、倫理的負債を返済することになる
免罪符を購入することでも倫理的負債を返済することができる
死ぬまでに魂の穢れをある一定水準にまで引き下げることができれば、めでたく合格し、天国に行ける
人間本性は自然的不可避的に悪であり背徳的である
人間性は堕落しており、善を選ぶ自由がまったく欠けている 救われる唯一の道は、自分自身がこのようなどうしようもなく下らない生き物であることを認めることである
自分の努力ではどのような善もなしえない、という人間の腐敗と無力を確信することが、神の恩寵の成立する本質的な要件である
もし人々が自分自身に従うならば、それは彼らを破滅させるもっとも恐ろしい害毒をもたらす。それゆえ、自分自身で何かを知ったり欲したりするようなことなく、われわれの前を進み給う、神によって導かれることだけが、救済の避難所をもたらすのである
救済されるか、永劫の罰を受けるかは、人がこの世で善行を積んだか、悪行を犯したかの結果ではなく、人間が生まれる前から神によって予定されている
神がなぜすべての人間を救済せず、そんなひどい決定をするかというと、ただ神の無限の力を示したいからにすぎない
個人は自らの行為でその運命を変えることはできないけれども、自分が選ばれたものであるという証拠を見つけることは可能である 人間が神の期待に背かないようにたゆまぬ努力をすることができないのなら、そのことそれ自体が、自分が救われていないことの証拠になる
こうしてカルヴァンの教義において、人間の努力はその目的を失い、自己目的化する。自分はまったく無力であり、自らの救済のためには何もできないが、もしもサボるようなことがあると、それは自分が救われていないことの証拠となる。その恐ろしい証拠を突きつけられないためには、つねに何かに没頭して努力しつづけなければならない。
プロテスタント的世界観
このようなプロテスタント的地平においては人間は、自己の無力さと人間性の罪悪性を徹底的に承認し、全生涯をその罪業の償いと考え、極度の自己卑下とたえまない努力によって、自己犠牲と禁欲を貫き、自分は救われていないのではないかという疑いと不安とを克服すべき存在ということになる。ここにおいて人間は、自分を無価値であるとみなし、人間を超えた目的に服従することを正しいと考えるようになる。 フロムの立場
人間はその存在のはじめから、どの行動を採るかの選択に直面する。動物の場合には、連続的な反応の鎖がある。たとえば飢えというような一つの刺激からはじまり、その刺激から生み出された緊張を解除するような、ともかく厳密に決定された行動で終わる。人間の場合には、その鎖が途切れている。刺激はあっても、それを満たすやり方は「開かれて」いて、さまざまの行動のなかから選択しなければならない。 意志による選択こそ自由であるというキリスト教的なステレオタイプは受け入れている プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神
自分を好まない人間は、自分の価値を認めることができない
自分の値打ちを自分自身に言い聞かせるべく、自分のためにあらゆるものを獲得しようとして、貪欲な目を光らせることになる
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あらすじ
自らの意志と能力だけを頼り、神を信じず放蕩を尽くしていた大商人が、ある夜イブリース(イスラムの悪魔)の罠により百十一の扉を持つ白い空間に閉じ込められます。 扉の向うに何があるかはわかりません。自由への扉かもしれないし、猛獣が待ち構えているかもしれません。ただ、一つの扉を開くと、他の扉は永遠に閉ざされてしまいます。つまり、選べるのは一つだけです。 「ある扉の向こうには、血に飢えたライオンが待ち構えていて、おまえを引き裂いてしまうかもしれぬ。
また、別の扉の向こうは、かぎりない愛の歓喜をおまえに与えんとする妖精で一杯の花園かもしれない。
三つ目の扉の後ろには、大男の黒人奴隷が不気味に光る剣を構え、おまえの首を打ち落とそうとしているやもしれぬ。
(・・・)
といった具合だ。必ずしもそうだとは言わぬ。だが、そうかもしれないのだ。いいか、ここで、おまえはおのれの運命を選ぶのだ。良き運命を選ぶがよい」 (・・・)
「扉がみな同じならば、どの扉から出ても同じだろう?」
「開ける前はみな同じだが、その後ではちがう」
(・・・)
「つまり、選ぶ理由は何もないということか?」
「理由はまったくない。おまえがおのれの自由意志で決めたというほかは」 (・・・)
「どうして決めることができるのか? 扉がどこに通じているのかわからないのに」
「それを知っていたことが一度でもあるのか? 生まれてからこれまでというもの、おまえはあれやこれやと決めたときに、理由があると信じていた。しかし、真実のところ、おまえが期待することが本当に起こるかどうかは、一度たりとも予見できなかったのだ。お前の理由というのは夢か妄想にすぎなかった。あたかも、これらの扉に絵が描かれていて、それがまやかしの指標としておまえをだますようなものだ。人間は盲目だ。人間がなすことは、暗闇の中へとなすのだ。」
(・・・)
「だからこそ、人が決めることはすべて、この世のはじまりから、アッラーの世界の計に前もって記されていると言われているのだ。良き決断であれ、悪しきそれであれ、愚かな決断も賢しいそれも、おまえがおこなう決断という決断は、まさにアッラーが全部おまえに吹き込むのだ。アッラーは盲人の手をとるように、おまえを思うままに導く。すべてはアッラーが定めたことだというではないか。そして、それは大いなるアッラーの恵みだとも。だが、ここではおまえにアッラーの恵みはない。アッラーの手はおまえを導かないぞ」 「自由の牢獄」における自由観
舞台はバグダッドであるが、論じられているのは「全能の神」と「人間の自由」との矛盾に関する、キリスト教神学の永遠のアポリアである。
主人公はまったく本質的に同等な百十一の選択肢を与えられ、それが「完全な自由」だとされる。つまり自由とは「選択の自由」のことである。可能な選択肢がすべて与えられていれば、その人は「自由」であり、それゆえその状態で選んだ扉を空けて生じた結果は、自分で引き受けなければならない。これが「責任」をとることである。こうして自由と責任とが結びつく。 現実における選択の自由
選択の自由というものは、じつはまやかしであり、結局のところ本質的な決断などそもそもできないのであり、合理的選択を迫られる現代人は「自由の牢獄」に捉えられている 扉の数が無数にあり、その上、正しいと思って選んだことでも、期待通りの結果が出ることなどありえない
現実の問題への対処を考えようとすると、選択肢が膨大になってしまう
世の中は非線形性に満ち満ちており、こうすればこうなるだろう、と思ってやったことが、そのまま実現するということはむしろまれである。思いもかけないことが起きて、とんでもない結果になることがしばしばある。
合理的選択に議論を限定するならば、人間や社会について、合理的に議論できる可能性はない。
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「自由=選択肢が与えられている状況」「選択=岐路=瞬間の決断」というステレオタイプはおかしくないか??
人間の意思決定は、意識と無意識の双方の関与によって実現されており、意識的な判断だけではなされていない 人間は「こうしよう」という形で決断するのではなく、「そうなってしまう」という形で決断するのである
人間には、無意識下にある情報を無視したり逆に注意を払ったりできる/してしまう『自己欺瞞』という性質・能力がある 自分ではそんなつもりがなかったのに、そうなってしまった
自分自身に嘘をつく
自分自身を騙す
自分で嘘だと分かっていることを信じる
私たちは多くの知的な判断や処理を無意識的に行っている たとえば文字を書く時に注意を向けているのは書こうとしている内容、思考や思想であって、ペンの持ち方や紙の上に置いた指の位置などには向いていない
たとえば文字を書いている時に耳に飛び込んでくる、自分には関係のない車の音にはまったく気が付かないが、家族が買い物に行って帰ってきた車の音には気がついて、ペンを置いて荷物を運ぶのを手伝いに行くことができる
一方で、全世界を巻き込む深刻な破壊欲にうっかり気づかないというようなことができてしまう
ヒトラーは、意識的には、ドイツにとって最善のことを望んでいると信じていた。
自分が無意識に行ったことも含めて反省し、自分のあり方を改めること 過去の判断や行いではなく、現在の自分自身のあり方が責任の対象である
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『論語』の「道」=分岐なき道
君子あるいは仁者は、この「道」を知り、それを辿る者である。
西欧的なステレオタイプに立てば、「道」ということを考えると、不可避的に「岐路」「選択」というイメージが出てくる その道はどこに通じているのか?
旅の終着点はどこなのか?
そこは桃源郷なのか地獄なのか?
『論語』にはそのような比喩はひとつもない。『論語』においては道は分岐せず、またどこに辿りつくのかもわからない。君子・仁者は、道を辿ってどこかに到達することを目指すのではない。彼らが目指すのは、なんら努力することなく、おのずから道に従うようになることである。道そのものが目指すべきものであり、その道が何を目指しているかは問題ではない。なすべきことは選択ではなく、その辿るべき道を知ることである。問題は、間違った選択をすることではなく、正しい道から外れることである。
倫理的な罪と罰
間違った選択をした者には罪があり、良心の呵責が生じ、罪悪感に苛まれる 罪を清算するには罰を受けるしかない
西欧の倫理的発想
(西欧的伝統に特徴的な)罰が正当化されるのは、それが過去に起きたことに照らして相応しいからであり、たんに罰のもたらす効果によるのではない。罰は、倫理的に責任ある主体によって以前になされた罪行への、適切な倫理的応酬である。また悔い改めは、その心理的効果の有無によって適切であったりそうでなかったりするような手段ではない。それは、過去の行いに対する悔い改めである。悔い改めは、人が倫理的に責任を負うべき過去の悪行に対する、倫理的な応答である。罪とは、なされた悪行に従って累積する倫理的(あるいは魂の)負の資産である。 罰や反省が将来的に罪を抑止する効果があろうとなかろうと、罰を与えてやらないと責任が解消されないという考え
実用主義的な罪と罰
『論語』のみならず孔子や同時代の中国の思想家には、「倫理的な罪と罰」という考えはない
悪い行いをするものがいたら社会の安寧がおびやかされるので、それを防ぐために罰を与えて反省を迫り、同時に周囲に対してみせしめにする
罰がくだされるのは、将来における悪行を抑制するという「実用的」な目的のためであり、過去の罪に罰を与えることが倫理的に正しいからではない
孔子が重視するのは罪ではなく、恥である
法制や刑罰をもって統治しようとすると、民衆はそういったものに引っかからなければ、何をしてもいいと考え、恥じることがなくなる。徳と礼によって統治することで、はじめて民衆は自らに恥じないように振る舞い、品格を持つようになる。
何か間違った行いをした、ということは、道を外れたということである。そのときせねばならぬことは、自らの不徳を恥じ、行いを改めることである。これは自分がいたらぬ者であることを意味するが、別に穢れたものであることは意味しない。誰かに許しを請う必要などない。自分が改められるかどうか、である。正しい道に戻れるかどうかである。
「倫理的な罪と罰」概念のもたらす負の側面
己の魂そのものが汚れているという感覚は、人を不安に陥れる。その不安を逃れるべく、誰かに許しを請うことになる。その不安こそがまさにハラスメントの悪魔の餌食である。これによって人は、自分を価値がないものと思い、自愛を喪失する。そのかわり、規範に合致したように行動する偽の自我を帯びることになる。こうして権威主義的人格ができあがり、強いものに対してはマゾヒズム的に服従し、弱いものに対してはサディズム的に支配するようになる。 未知との遭遇
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出来事以上の出来事
なぜ、あんな事件が起こったのか?
事件を引き起こした人間がいる以上、原因や意図や動機があるはずだと思ってしまう
ひとつは「彼だからそれは起きた」というもの。つまり、それを起こした主体の個別性というか個体性というか、もっと強い言い方でいうと、特異性とか異常性みたいなものに、その理由を求めるという説明の仕方です。「オウムだから、麻原彰晃だから、あんなことをしたのだ」という言い方ですね。
それに対して、それとはほとんど逆立する形の、もう一つの説明の方向性がある。それは「彼ではなくてもそれは起こり得た」という説明の仕方です。「オウムを生み出したのは日本社会である」とか「加藤という男を事件に向かわせたのは、この時代のせいである」といった形で、時代とか社会とか、歴史性や共同体の中に、そんな事件が起きてしまう潜在的な起動因のようなものが沈殿していて、それがある時、ある誰かという形で突然露出してくる。つまり、オウムがやらなくても同じような事件は起こった、あるいは、加藤が手を染めなくてもアキバのような事件は起こり得た、というような言説です。
この二つは、自由意志があるとする場合と、ないとする場合に対応しているyuiseki.icon https://gyazo.com/d716d052d687d87efa967f40a3a21606
『CURE』
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とにかく、『CURE』がここまで僕の代表作になるとは思っていませんでしたし、今だにあの世界を望まれてしまって困っているんです。ちょっとホラーめいたものだと、すぐ「主人公の心の闇も、一つよろしくお願いします」とか……(笑)。ちょっと待ってくださいよ、一つよろしくじゃ済まないでしょう、と言いたいわけです。『CURE』はある事件を考え、人を動かしてゆくうちに、いつの間にか登場人物の心の闇のようなものに届いてしまった映画ですが、描こうとした対象は人間の内面ではありません。
「わからなさ」
黒沢監督は「心の闇」などははなから描こうとは思っていない。しかし、空っぽの人物を作り出し、その周りに幾つかの事件を起こせば、そこに「闇」を見出す者が必ず出てくることも知っている。ひとは空疎な表象を意味性で充填しようとする。
これは現実の出来事にも当て嵌まると思うのです。とりわけ「出来事以上の出来事」には。何事かが起こった時、どうしてそのようなことが起こったのか、どうにもわからないからこそ、われわれはその「わからなさ」を解消するための説明や論理を捻出する。しかし、そういう作業はいつまで立っても唯一絶対の「正解」には辿り着かない。
偶然によって生じてしまう「わからなさ」
このような、無数の解釈や説明を否応無しに引きずり出してしまう「わからなさ」が、何を意味しているのかというと、僕は「偶然性」だと思うのです。どうしても、どこまでいっても、いつまでたっても、理由や原因が正答できないような出来事が起こるのは、要するに偶然、つまり一種の確率論的な問題だと思うわけです。人災はひとの災いですから、そこに主体的な判断や意志が働いている筈だと誰しもが思う。そして、それはもちろんそうであり、誰もが何かは考えて何かするわけです。けれども、それでも、ある決定的な「出来事以上の出来事」が、現実に起こってしまうのかどうかは、最後の最後には、偶然によるのだと僕は考えているのです。 第一次偶然性ブーム
1930年、九鬼周造『偶然性の問題』
1930年、中河与一『偶然と文学』
1930年、横光利一『純粋小説論』
ドストエフスキイの罪と罰という小説を、今私は読みつつあるところだが、この小説には、通俗小説の概念の根底をなすところの、偶然(一時性)ということが、実に最初から多いのである。思わぬ人物がその小説の中で、どうしても是非その場合に出現しなければ、役に立たぬと思うときにあつらえ向きに、ひょっこり現れ、しかも、不意に唐突なことばかりをやるという風の、一見世人の妥当な理智の批判に耐え得ぬような、いわゆる感傷性を備えた現れ方をして、われわれ読者を喜ばす。 文学が描くべきリアルな「現実」にこそ、そういう「偶然」がしばしば生じている 第二次偶然性ブーム
1992年、イーヴァル・エクランド『偶然とは何か――北欧神話で読む現代数学理論全6章』
2007年、植島啓司『偶然のチカラ』
2008年、レナード・ムロディナウ『たまたま』
2010年、竹内啓『偶然とは何か――その積極的意味』
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人間は与えられた環境―状況―システムの中で、いかに「合理的」に振る舞おうとしても、その認知能力にはもともと限界があるがゆえに、実現されている「合理性」は、さまざまに限定せざるを得ない https://gyazo.com/3e96fb1d2dadca20ef5bc4953f9ccd37
最も基本的な心理学の法則は、行為者の信念、欲求、行為を制約するのは合理性だという形をとる。合理性なくして行為者なし。生き物が行為者であるためには、どの程度、合理的でなくてはならないだろうか?すなわち、信念と欲求と知覚からなる認知システムを持っているとみなされるためには、どれくらい合理的でなくてはならないだろうか?
最近まで、哲学はきわめて理想化された合理性の概念を無批判に受け入れてきた。しかし、認知、計算、情報にはコストがかかる。それらは、霊的な気体のようなものの中に存在するのではない。われわれは結局、人間に過ぎないのだ。
ここで、二番目に基礎的な心理学の原理として特徴づけられるものを検討する必要がある。それは、行為者は有限な対象だ、という原理である。
もうひとつのアプローチは、それほど理想化されていない、より現実的な最小合理性のモデルからはじめることであり、このモデルにおいては、行為選択を行う行為者の能力は、行き当たりばったりと完全さの間に位置することになる。
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選択肢の暴圧
簡単に言ってしまえば、選択肢が多いほうが不満足な結果を生んでしまう、ということです。これをシュワルツは、ある経済学者の言葉を援用して「選択肢の暴圧」と読んでいます。この「暴圧」をどう処理したらいいのか、というのが、この本の趣旨です。沢山の選択肢があることは、本来ならば望ましいことであるはずなのに、どういうわけか数多くの選択肢から選ばされるということ自体が「暴圧」となり、不満足を結果してしまう。では、いったいどうすればいいのか? マキシマイザー
マキシマイザーは、買い物や決断をするたびに、それが考えられるかぎり最高だと確かめないではいられない。どうすれば、それが絶対に最高だと確かめられるのだろう?確かめるには、ほかのオプションをすべて調べるしかない。だから、マキシマイザーは、セーターというセーターを物色しないうちには、最高の一枚をみつけたと核心できない。値札という値札をみあにうちは、安く買ったと安心できない。マキシマイズ(最大化)とは、意思決定の戦略としてみれば、とんでもなく労力を要求される方法だ。オプションの数が増えるにつれ、要求される労力はますますとんでもなくなる。
サティスファイザー
サティスファイ(満足)とは、まずまずいいものでよしとして、どこかにもっといいものがあるかもしれない、とは考えないことだ。サティスファイザーは、自分の中に基準なり原則なりをもっている。そうした基準にかなう品がみつかったら、みつかった時点で、探すのをやめる。サイズ、品質、値段の基準を満たすセーターが一軒目の店でみつかったら、それを買って、おしまいだ。角を曲がった先の店に、もっといいのがあるかもしれない、もっと安く買えるかもしれない、とは考えない。
つまり
マキシマイザーは、古典的な合理性モデルであるのに対して、サティスファイザーは、限定合理性・最小合理性に近いモデルであるyuiseki.icon 限定合理性・最小合理性への違和感
なるほどシュワルツの言っていることはわかります。わかるのですが、でもやはり不満足です。マキシマイザーとサティスファイザーの二つしか取るべき道はないのだろうか?と思ってしまう。
「選択の過剰」というものを、僕なりに言い換えてみます。CDを1枚買う時のことを考えてみてください。選択肢が100枚ある所から1枚選ぶのと、50枚から1枚選ぶのと、10枚から1枚選ぶのと、2枚から1枚選ぶのでは、買うのは同じにも関わらず、どうしても違う感じがしてきます。
なぜ違う感じがするのかと言えば、100枚から一枚を選ぶと、後に99枚も残っていることになるからです。残っている選択肢が多いほど、どうしても「選ばれなかった選択肢」の方がこちらに迫ってくる。
何か――商品でも行為でも構いません――を選ぶと、すぐに選ばなかったものや選べなかったものが気になりだす。選ばなかった、選べなかった選択肢のほうが浮き上がってくる。次に、その「選ばれなかったもの」こそ自分が選ぶべきものだったのではないか、という気がしてくる。
セカイ系作品と可能世界作品
「世界を自分の思い通りにしたい」という欲望がセカイ系の出発点だとすると、「今ある世界とは別の世界があって欲しい」というのが、「可能世界もの」の基本的な欲望と言っていいと思います。このとき、ある選択肢が選ばれると、そこにはむしろ「選択されなかったもの」の方が浮き上がってくる。この「選択されなかったもの」にかかわる想像力のあり方こそが「可能世界もの」の本質だと僕は思います。つまり「(私にとっての)世界がこうではなかったとしたら?」という仮想の要請が、この種のフィクションの根幹を支えている。 「可能世界もの」の問題点
問題は、にもかかわらず、ひとりのプレイヤーはその時ごとに、目の前の選択肢から一つずつしか選べない、ということです。その時、他のありえたかもしれない可能性は、差し当たりすべて見捨てられてしまう。つまり、同時に二つ以上の分岐点を選ぶことはできない。あくまでも、ひとつ選んでみて、うまくいかなかったら、また別の可能性を選んで、望ましい展開やエンディングに至るまで、順繰りに試していくしかない。だとしたら、じつはこれは「現実」とそれほど変わらないのではないか。 トゥルーエンド
「トゥルーエンド」とは、いささか奇妙な言葉です。本来、ストーリーには基本的に一個の結末しか存在していなかった。ところが、マルチエンディングという事態が生じたせいで、トゥルーという形で「真の結末」が回帰してきたわけです。
無限に近い「可能な世界」の群れと、その都度決定的な「一個の選ばれた世界」が、対峙させられている。そうなると、むしろ自分の選択=意志を超えたところにトゥルーなエンドがあって欲しい、本当の結末があって欲しいという願望が出てくる。真実の、正しい唯一の結末があって欲しい。つまり、「可能性を収束させて欲しい」という欲望が出てきてしまうのです。 セカイからシャカイへ
「この世界がこうでなかったらいいのに」という現実否認の欲望
セカイ系作品
可能世界作品
そんな「世界」など、どこにも存在していない。やはり「現実」しかない。「この世界」しかない。結局はそれを認めるしかない。
ならば他ならぬ「この世界」で、いかにしてサヴァイブするのか、いかにしてサクセスするのかという動機が生まれてくる
「世界=セカイ」が「社会=シャカイ」としてたち現れてくる
最強の運命論
「選択肢の暴圧」と、それに伴う「後悔」というものを、どうやって処理すればいいのだろうか? 「起きたことはすべていいことだと考える」
「たとえ好ましからざる/望まざることでも、いいことだと思う」
「自分の身に起こったことをすべて必然だと考える」
「すべての出来事があらかじめ決まっていて、しかもそこには理由も必然性もない」
何ごとかが、何もかもが、突然に唐突に、理由も説明もなしに、僕たちの身に不意に降りかかる
という考え、すなわち最強の運命論を採用する
「すべてが決まっているのだったら、自分の意志で何をしても意味がないじゃないか」
「結局決まってるんだから」とか言って、世の中を斜に見て、するつもりだったことさえ何もしない場合
最強の運命論においては、「何もせず何も起こらないことが決まっていた」ということ
自分の意志に沿って何ごとかをする、とにかくやってみることにした場合 最強の運命論においては、それはそうすることが「決まっていた」ということ
A:決まっている。だからやらない。
B:決まっている。だからやってみる。
「偶然」によって「運命」は、あなたの「意志」から遮断されており、だがその「意志」も「運命」に包含されているのだとしたら、あなたはあなたが愛する人に、想いを伝えますか?それともそうしませんか? そうしたほうがいいに決まってる。僕はそう思います。「最強の運命論」が最強であるのは、そこでは「ああしたからこうなってしまった」という、あの「因果性」、あの「後悔」を生み出すプログラムが、決定論の強力さによって無効にされているからです。確かに「ああしたからこうなった」ように思えるかもしれない。だがしかし、そこには「ああしたのにそうならなかった」という可能性だってあったのであり、そしてそちらが実現していたとしたら、そちらが「運命」だったのです。 最強の運命論における意志
「最強の運命論」は、「因果」を超えている、いや精確に言うなら「最強の運命」は「因果」を丸ごと含んでいる。 何もかも決まっているのだから、何をしても無意味だと考える。でもそのことさえも決まっている。何もかも決まっているからこそ、意志というものを発動させる。でもその結果だって決まっている。AとBはどちらも前提は同じ、結論も同じです。だとしたら結局は、どちらが愉しいか、どちらが自分の心に幸福を与えてくれるのか、ではないでしょうか。 https://gyazo.com/1263e80d0a51da2c41d8925b2a03d18b
世界は世界それ自体から成るのではなく、世界を記述する方法から成るのだ
「人間はヴァージョンを制作することによって世界を制作する」という主張を行った。「ヴァージョン」とは記号システムのことである。例えば、日常的知覚、言語的表現、絵画作品、音楽、表情、身振りなどはいずれも「記号システム」であるが、世界制作とのかかわりで認識論的に重要なのは当然ながら「科学理論」にほかならない。
世界制作論のいくつかの重要な含意のうち最も問題をかもすのは、その複数主義であろう。すなわち、論理的に両立し得ないが「正しい」複数のヴァージョンがありうる、という主張である。それゆえ世界は数的に複数存在することになる。これをどのように解釈すべきだろうか。
彼のこの見地は一種の構成主義であるが、ヴァージョンの背後に何かしら実在する世界なるものを認めるわけではない。この意味で世界制作論はある種の反実在論、いや非実在論(irrealisim)を主張している。 われわれがどういう述語を使って世界を切り分けるかで、世界を構成する基本的なカテゴリー、すなわち世界の存在論は全く変わってくる。同等に「正しい」複数の存在論が存立する結果になる。
「可能世界」ではなく、「多数の現実世界」が幾つも存在する 多数の現実世界=ヴァージョン
それぞれが正しくて、しかも対照をなし、すべてが唯一のものへ還元されるわけではない多くのヴァージョンが存在する。こうしたヴァージョンが許容されているかぎり、それらの統一は、多くのヴァージョンの下にある両価的なあるいは中立的なあるものにではなく、それらのヴァージョンを包む全体の編成のうちに求められねばならない。
ここに「この世界」があるというよりも、ただ「複数のヴァージョン」があるだけである
非実在論
世界はヴァージョンによって制作されるという言い方は、それが暗に多元論を意味し、おまけに私が「基底部にある鈍重なもの」と呼んだものを破壊するので、人はしばしば腹をたてる。そこで私にできる何か慰めを申し上げたい。私は正しい世界=ヴァージョンの多数性を強調するが、多くの世界が存在するとは主張していない――それどころか世界が存在すると主張するものでもない。というのもすでに示唆したように、二つのヴァージョンが同じ世界のものかどうかという問いには、「同じ世界に関する複数のヴァージョン」という語句が多くの妥当な解釈をもつ以上、それと同じくらい多くの妥当な答えがあるからである。
正しさのうえで何ひとつ差を挟まない複数のヴァージョンが存在する以上、実在する唯一世界をどこかに固定するわけにはゆかないのだ。いまや世界は多数のヴァージョンへの戯れへ還元される。ただし、この非実在論はヴァージョンならなんでもよいとする無統制な知的無政府主義とは無縁であると、グッドマンは強調する。あくまで正しいヴァージョンを求めるべきだとすれば、戯れに投じることはいのちを賭した冒険なのだ。
唯一の実在世界を追放した代償に多数の<可能世界>を招き入れるやり方には、グッドマンは真っ向から反対する。なぜなら、可能世界の実在化は唯一世界をいたずらにふやしただけの実在論の一種にすぎないから。多様なヴァージョンへ世界を解き放ったのは、可能世界なる「第二」の実在を捏造しないで、しかもこの具体的現実に密着するためなのである。 無数にある「諸現実=諸虚構」
誰にとっても、複数の、数多の、無数の「諸現実」が重ね合わせられながら併存していて、それらの「諸現実」は、実のところ単に「現実」と言ってしまってもいいものだし、あるいは「諸虚構」と呼んでも同じことである。要するに「諸現実=諸虚構」の「ヴァージョン」が、とにかく沢山あるのだ、ということです。
最強の運命論における倫理観
僕たちの「後悔」、われわれの「苦悩」を生み出す「起こらなかったけれど起こったかもしれないこと」は沢山の「諸現実=諸虚構のヴァージョン」の内の一つである。だとすれば、それは要するに「この世界」で「起こったこと」と「起こらなかったこと」の間に自分が勝手に見出しているものに過ぎない。そこで「後悔」の契機となる「起こったかもしれないこと」でさえ、「無限」にあるのかもしれない「ヴァージョン」の内の、ほんの僅かな要素でしかない。つまりわれわれは、せいぜい「諸現実=諸虚構のヴァージョン」の一つ二つを比べて思い悩んでいるだけなのです。だからこそ僕は、どうしたって襲ってくる「後悔」という心の機能を――それをなくすのは無理だと思うので――拒絶するのではなく、いうなれば優しく受け止めて、実際に起こった「過去」を丸ごと肯定したほうがいい、つまり「起きたことはすべていいこと」だと考えたほうがいいと思うのです。