プロテスタント
人間本性は自然的不可避的に悪であり背徳的である
人間性は堕落しており、善を選ぶ自由がまったく欠けている 救われる唯一の道は、自分自身がこのようなどうしようもなく下らない生き物であることを認めることである
自分の努力ではどのような善もなしえない、という人間の腐敗と無力を確信することが、神の恩寵の成立する本質的な要件である
もし人々が自分自身に従うならば、それは彼らを破滅させるもっとも恐ろしい害毒をもたらす。それゆえ、自分自身で何かを知ったり欲したりするようなことなく、われわれの前を進み給う、神によって導かれることだけが、救済の避難所をもたらすのである
救済されるか、永劫の罰を受けるかは、人がこの世で善行を積んだか、悪行を犯したかの結果ではなく、人間が生まれる前から神によって予定されている
神がなぜすべての人間を救済せず、そんなひどい決定をするかというと、ただ神の無限の力を示したいからにすぎない
個人は自らの行為でその運命を変えることはできないけれども、自分が選ばれたものであるという証拠を見つけることは可能である 人間が神の期待に背かないようにたゆまぬ努力をすることができないのなら、そのことそれ自体が、自分が救われていないことの証拠になる
こうしてカルヴァンの教義において、人間の努力はその目的を失い、自己目的化する。自分はまったく無力であり、自らの救済のためには何もできないが、もしもサボるようなことがあると、それは自分が救われていないことの証拠となる。その恐ろしい証拠を突きつけられないためには、つねに何かに没頭して努力しつづけなければならない。
プロテスタント的世界観
このようなプロテスタント的地平においては人間は、自己の無力さと人間性の罪悪性を徹底的に承認し、全生涯をその罪業の償いと考え、極度の自己卑下とたえまない努力によって、自己犠牲と禁欲を貫き、自分は救われていないのではないかという疑いと不安とを克服すべき存在ということになる。ここにおいて人間は、自分を無価値であるとみなし、人間を超えた目的に服従することを正しいと考えるようになる。 プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神
現代において資本主義=経済的自由主義などを採用し、「選択の自由」を重視している社会の代表である英米圏が、カソリック系ではなくプロテスタント系であるのはなぜなのか 自分を好まない人間は、自分の価値を認めることができない
自分の値打ちを自分自身に言い聞かせるべく、自分のためにあらゆるものを獲得しようとして、貪欲な目を光らせることになる