ハラスメント
他者に対する解像度が荒くなる
他者を、その人そのものとしてではなく、属性で扱う
他者に対する認識が頑なになる
一度こういう人だろうと思った印象を変更しない
ハラスメントされている側の人間は、ハラスメントの苦しみを誤魔化すために感覚が麻痺していき、他者への認識が頑なになり、規則や規範を押し付けるような、対話を阻害する下地が出来上がっており、無意識的にハラスメントする側になってしまうことが多く、更なるハラスメントを生み出すという連鎖が生じかねないから、気をつけようね
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p139
人と人とが向き合っている場合を考えよう。私があなたに話しかける。あなたがそれを受け止めて、言葉を返す。私がそれを受け止めて、あなたに言葉を投げかける。それをあなたが受け止めて……。このやりとりの連鎖もまた、一つの循環するフィードバック回路を形成している。 この回路に双方が住み込むことで、お互いについて学び合い、認識を新たにしていくことができたとき、そこでは創発的なコミュニケーションが成立していると言える。このとき、お互いが、相手のメッセージを受けとるたびに、自分自身の認識を改める用意がなければならない。それを私は「学習」と呼んでいる。 メッセージの受信、学習、メッセージの送信、という作動を、双方が維持しているとき、これを「対話」と言うことができる。それゆえ、「対話」と「創発」は不可分な関係にある。 この対話を阻害する、というのはどういうことであろうか。
人々が表面的には対話を継続しているにも関わらず創発がもはや生じない、という場面は十分に考えられる。このようなときに創発を阻害するものとは、他者に対する学習を停止する、ということである。
たとえばあなたが私に言葉を投げかける。それを受け取った私はあなたについての認識を改め、言葉を返す。あなたも同じことをする。そうして対話が成立しているあいだに、私が突然、あなたへの学習回路をこっそり停止したとしよう。
つまり私は、あなたの反応を材料として、あなたの像を勝手に作り上げて固定してしまう。その像をあなたとみなし、その像に向かって語り、その像に向かって行為する。あなた自身の今の姿には注意を払わない。その像からはみ出るあなたの姿を「間違い」とみなし、無視するか攻撃する。その上で、「これがあなたの真の姿なのだから、それと違うことをするお前が悪いんだ」というメッセージを送る。
このように学習を停止し、捏造した像を他人に押し付ける行為は、対話の回路を切断してしまう。たとえその状態でメッセージのやりとりを続けたとしても、それは一回ごとに言うべきことを探し出して伝える、ぎこちない行為がくり返されているばかりである。メッセージがメッセージを産んで、豊かな発展を見せる、ということはもはや起きない。
このような状態でも、「対話を継続しなければいけない」という罪悪感によって、学習過程の停止した人とのメッセージのやりとりを維持することは、危険な行為である。それを続けると、あなたの学習過程もまた破壊されてしまう。そうしてそこに、支配と従属とが生じる。このような状況においては、新しい価値が生じることはない。すでにあるものの使いまわしと奪い合いとがあるばかりである。
p143
注意すべきは、創発的コミュニケーションが、必ずしも双方がなごやかに話し合っていることを意味しないことである。それは一見したところ激しい言葉でやりとりして言い争っているように見える。それと同じことであるが、ハラスメントが生じている場合、表面的にはなごやかな対話が行われていることも多い。問題はお互いが相手に対して感じることを、自分自身に対して誤魔化しているかどうかである。 また、もう一つ注意すべきことがある。それは、ハラスメントがコミュニケーションの重要な要素である規則・制度・概念・言語・記号などの存在によってはじめて可能になり、しかもそれらは、本質的にハラスメント的側面をつねに帯びている点である。それは、ちょうど包丁が料理をするための不可欠の道具であるにもかかわらず、殺人の道具にも使えることに似ている。殺人を防ぐために包丁を全廃することが不可能であるように、ハラスメントを防ぐために、たとえば規則を全廃することは不可能である。包丁は殺人の道具にもなりかねないことを意識しながら、料理のために使わなければならない。規則は、それがハラスメントの道具にもなりうることをつねに注意しながら、コミュニケーションのために使わねばならない。そのことを忘れて規則を振り回すのは、包丁を振り回す以上に危険である。
p144
ハラスメントが恐ろしいのは、それは無意識のうちに作動するからである。ハラスメントを受けながら、そのときに感じる「嫌だ」という身体反応を否定し、「相手は自分のためを思ってやってくれているんだ」と思い込んでしまったとしよう。すると、自分自身の感覚と自分の考えていることとが対応しなくなる。この状態に長期に渡って置かれていると、人間はそれに適応する学習をしてしまう。すると、 「嫌だ」という感覚を与える人=私への思いやりのある人
というような、異常な判定基準を自分のなかに作り出してしまうことがある。これをさらに発展させると、
「嫌な感じ」=「正しいこと、良いこと」
「嬉しい感じ」=「間違ったこと、悪いこと」
というような倒錯した関係式を自らのなかに構築するにいたる。こういった倒錯は、実のところ珍しいことではない。それどころか、非常に普遍的な現象である。
この種の倒錯を前提とすれば、「嬉しい」「気持ちいい」と感じることは、よからぬことである。逆に、良いことは「嫌だ」「つらい」という感覚をともなわないといけない、ということになる。ところが、創発的コミュニケーションは、たとえそれが激しい論争であったとしても、双方に喜びを与える。それゆえ、対話者の片方が「つらい=正しい」という倒錯的関係式を抱いていれば、その人は創発的コミュニケーションに出会うと身体がすくんでしまう。身体がすくめば学習は停止する。 このような人は、かつて感覚を開いたコミュニケーションをしようとして、心を傷つけられた経験を積み重ね、そのなかで感覚を抑え込んで自分を守るという適応をしたのである。言い換えれば、学習を停止する、という学習をしてしまったことになる。学習という機構は、原理的に停止しやすいという弱点を持つ。学習は「学習しない」という学習を許すが、ひとたび学習しなくなると、いかなる変化も起きなくなるので、「学習を再開する」という学習もできないからである。
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p148
もしあなたが、創発に出会うとすくんでしまうような状態にある場合に、それでも対話を続けるとどうなるであろうか。このとき、あなたは学習過程を停止した状態でコミュニケーションに望むことになる。つまりそれは、ハラスメントを相手に対して仕掛けることに帰結する。こうして、意識の上では「正しい」ことをしながら、実際には他者への学習過程の停止=ハラスメントを実行する、ということになる。これがハラスメントの無意識に生じる理由である。 ハラスメントを誰かから受けた者は、このような形で、別の人に対してハラスメントを仕掛けることになりかねない。もちろん、ハラスメントを受けていることを「嫌だ」と認識していればこのような連鎖を起こさないでいられる。問題は、そのような行為を仕掛ける相手の悪意を直視せず、
「これは仕方のないことだ」
「この人は私のためを思ってやってくれているのだ」
「悪いのは私の方だ」
と自分に言い聞かせている場合である。このとき、学習過程の停止は「正しいこと」、少なくとも「仕方のないこと」に転化する。このとき、自分の本来の感覚・欲求は間違っており、そのような感覚・欲求を覚えるのは悪いことだと思ってしまう。こうして自己嫌悪が生じる。 私は、このような状態に陥ることを「呪縛にかかった」と表現する。つまり、ハラスメントを受けながら、その苦しみを誤魔化すために、「自分を攻撃している人は悪くない」「それは正しいことだ」あるいは「私が望んでいることだ」と思い込むこと、これが呪縛にかかるということである。こうなると、悪いのは自分だ、ということになる。
ある人がハラスメントを受け、呪縛にかかると、学習過程を停止してしまい、そのままの状態で他の人との対話を行えば、無意識にハラスメントをしてしまう。そのハラスメントを受けたひとの学習過程が停止してしまえば、その人もまた誰かに対して無意識にハラスメントを仕掛けることになる。こうしてハラスメントは無意識のうちに連鎖する。