傲慢・目配せ・うっすら
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昨晩の読書会では、少々誤った理解をテキストからしてしまった方に、正しいであろう理解を説明するということを試みた
具体的には、闘技民主主義が想定する、(シュミット的な“敵”ではない)“対抗者”が、デリダの言うところの「同一性/差異」による構成的外部であることは、素朴なライバル関係のようなそれとは異なる点についての修正。 人は誰しも傲慢であり、その傲慢さを、どの程度あるいはどのように、表出しているか/表出されてしまうかに、他者への配慮の具合が現れる、いや現れざるを得ない。つまりSorge。 たとえ反依存的であったとしても、それは自身を生んだ父母を現存在は選べない事実に由来するのだろう。 歴史の先達にできる限りの目配せをした造語が要請されることも、現在を共に生きる他者へのケアの一種なのだろうと考えるなど。 なおここでの「造語」には、図解やイラストによる表現も含みそうね。 「クーゲルシュライバー」だと何のことかパッと見で理解し難いかもだけど、「Kugelschreiber」だと、「球体(Kugel)を用いて書く(schreib)道具(er)」として「ボールペン」の概念を仮に知らない人であっても、どういうものなのかはうっすら想像できるのかもしれない。でも「Kuli」だけだとさすがにイメージはできないか。 (書き手さんのペースを邪魔しそうな気がしてこっちで書いている)
そのうっすら具合はどの程度なのかは、あまり共有できない。みんなそのくらいのうっすらさでは理解しているのかもしれないし、自分だけ強めに理解しているのかもしれない。
そのくらいのうっすらさなら誰でも知ってるわいと思われているかもしれない感覚と、普通の人(誰だ?)よりはちょっとは理解の解像感が高いかもという傲慢ともとれるような感覚のせめぎ合い。 この感覚の確信の不可能性が、私の、ひいては人の“弱さ”であり、前述のケアの共同性論とつながるのであろう。 「たぶんあれのことね」を少し書いてみる。
その概念自体を知らなくても同じ書棚にあるであろう本を知っていれば、その概念さえも堂々と語れることを読んでいない本について堂々と語る方法.iconでは——皮肉たっぷりに——書いていた。 バイヤールの指摘を前提に理解を放棄した軽やかさを維持しつつ、同時に、著者の記述——極論するならばすべての記述は「造語」だろう——を一語一語、他者と共同して確認し合って読み解いていく会が、うちのじっくり読書会(ちょうど昨晩だった)。 例えば、「闘技」の意味を、我々がムフに目配せして、きちんと——彼女が目配せをした——デリダから理解し直せるように。 「闘技」の語感などから、著者の記述したかったことから離れて連想ゲームを参加者同士述べ合っても、バイヤール的には許されるのかもしれないが、それでは単なるちょっと知的さを装った自己紹介の場となるわけで、それを目指すのならばいいのだけど、だとするならば、別に、共通の本を事前に読んでくるスタイルの読書会という形式をとらずとも、達成できる。みんなでキャンプ行くとかさ。