傲慢・目配せ・うっすら
from 2026/05/15
terang.icon
昨晩の読書会では、少々誤った理解をテキストからしてしまった方に、正しいであろう理解を説明するということを試みた
具体的には、闘技民主主義が想定する、(シュミット的な“敵”ではない)“対抗者”が、デリダの言うところの「同一性/差異」による構成的外部であることは、素朴なライバル関係のようなそれとは異なる点についての修正。
自分の言葉という概念、生成AI登場以降、ますますレトロニムみが増しているような気もしてなんだか面白い。
人は誰しも傲慢であり、その傲慢さを、どの程度あるいはどのように、表出しているか/表出されてしまうかに、他者への配慮の具合が現れる、いや現れざるを得ない。つまりSorge。
たとえ反依存的であったとしても、それは自身を生んだ父母を現存在は選べない事実に由来するのだろう。
ロールズの正義論から、ケアの共同性論が導かれる根拠の1つだと思うなあ。
歴史の先達にできる限りの目配せをした造語が要請されることも、現在を共に生きる他者へのケアの一種なのだろうと考えるなど。
なおここでの「造語」には、図解やイラストによる表現も含みそうね。
「クーゲルシュライバー」だと何のことかパッと見で理解し難いかもだけど、「Kugelschreiber」だと、「球体(Kugel)を用いて書く(schreib)道具(er)」として「ボールペン」の概念を仮に知らない人であっても、どういうものなのかはうっすら想像できるのかもしれない。でも「Kuli」だけだとさすがにイメージはできないか。
この文ページタイトルの自分自身を説明する度合い#6a06774c00000000006ab02cは、うっすらなら意味はとれる
(書き手さんのペースを邪魔しそうな気がしてこっちで書いている)
そのうっすら具合はどの程度なのかは、あまり共有できない。みんなそのくらいのうっすらさでは理解しているのかもしれないし、自分だけ強めに理解しているのかもしれない。
引用内の下線箇所のうちロバート・ヴェンチュリなどは、建築的形帯の理論だけは知らない概念だったので意味を取れていない。建築課題を分析するための徹底的な方法を発展させる、クリストファー・アレグザンダーと並置できそうな試みの1つなのだなと一旦仮認識することにして、自分だったら先を読むだろうなあ。
記号学、構造主義、チョムスキーなどは、「たぶんあれのことね」という感覚。
実はこの辺、書いていてちょっと恥ずかしい感覚。
そのくらいのうっすらさなら誰でも知ってるわいと思われているかもしれない感覚と、普通の人(誰だ?)よりはちょっとは理解の解像感が高いかもという傲慢ともとれるような感覚のせめぎ合い。
この感覚の確信の不可能性が、私の、ひいては人の“弱さ”であり、前述のケアの共同性論とつながるのであろう。
「たぶんあれのことね」を少し書いてみる。
記号学というとC・S・パースとソシュールが思い浮かぶけども、まあ直後にフランスでしかも構造主義と書いているのだからソシュール方面だろう。それで建築の全体性なるものを、構造主義的なネットワーク論や差異論、あるいは脱中心論として(相互の論理的相関関係で)何かしらを書いたんだろうなあ、『建築における志向』は読んだことないけども。そいで、チョムスキーは生成文法論だろうから、これも建築にもしつなげるとしたら「玄関の次は廊下がくる」みたいな建築論でも書いたんだろうか、それならパターン・ランゲージ(アレグザンダー)っぽいよなあ、知らんけど。というのがここでの「うっすら」な自分の理解の一部。
その概念自体を知らなくても同じ書棚にあるであろう本を知っていれば、その概念さえも堂々と語れることを読んでいない本について堂々と語る方法.iconでは——皮肉たっぷりに——書いていた。
cf. /komoji-od/『読んでいない本について堂々と語る方法』
これはおそらく著者であるピエール・バイヤールの言葉を使うならば、幻影としての書物とヴァーチャル図書館の話。
バイヤールの指摘を前提に理解を放棄した軽やかさを維持しつつ、同時に、著者の記述——極論するならばすべての記述は「造語」だろう——を一語一語、他者と共同して確認し合って読み解いていく会が、うちのじっくり読書会(ちょうど昨晩だった)。
例えば、「闘技」の意味を、我々がムフに目配せして、きちんと——彼女が目配せをした——デリダから理解し直せるように。
「闘技」の語感などから、著者の記述したかったことから離れて連想ゲームを参加者同士述べ合っても、バイヤール的には許されるのかもしれないが、それでは単なるちょっと知的さを装った自己紹介の場となるわけで、それを目指すのならばいいのだけど、だとするならば、別に、共通の本を事前に読んでくるスタイルの読書会という形式をとらずとも、達成できる。みんなでキャンプ行くとかさ。
記述の「意味」を曖昧さの中で苦しみながらも探索し続けてあるとき「理解」へと至るその瞬間は、なぜかいつも他者と同時発生的で、一種の“心地よさ”を伴い、これをそうだなあ、「対話の奇跡(ルウェル・ハウ)を体験できる」なんて書いてしまうと少々スピリチュアルみが出てあんましよくないのかもしれないですね。