ものを考えるときには、笊で水を掬うごとくにせよ
注:笊(ざる)、掬う(すくう)
を「水」で検索してみたcFQ2f7LRuLYP.icon Ctrl+fによる手づから検索
このテキストがどこから来ているのかは不明
「掬」が近くに出てくる例
A 75巻本 の第54巻「洗浄」
このあひだ、衆家きたりてたちつらなれば、叉手して揖すべし。揖するに、かならずしもあひむかひて曲躬せず。ただ叉手をむねのまへにあてて氣色ある揖なり。東司にては、直を著せざるにも、衆家と揖し氣色するなり。もし兩手ともにいまだ觸せず、兩手ともにものをひさげざるには、兩手を叉して揖すべし。もしすでに一手を觸せしめ、一手にものを提せらんときは、一手にて揖すべし。一手にて揖するには、手をあふげて、指頭すこしきかがめて、水を掬せんとするがごとくしてもちて、頭をいささか低頭せんとするがごとく揖するなり。他、かくのごとくせば、おのれかくのごとくすべし。おのれかくのごとくせば、他またしかあるべし。
B 12巻本 の第6巻「歸依佛法僧寶」
爾時世尊、以手掬水、告龍女言、此水名爲瞋陀留脂藥和。我今誠實發言語汝、我於往昔、爲救鴿故、棄身命、終不疑念起慳惜心。此言若實、令汝惡患、悉皆除(爾の時に世尊、手を以て水を掬ひ、龍女に告げて言はく、此の水を名づけて瞋陀留脂藥和と爲す。我れ今誠實に言を發して汝に語らん、我れ往昔に於て、鴿を救はんが爲の故に、身命を棄しも、終に疑念して慳惜の心を起さざりき。此の言若し實ならば、汝が惡患をして悉皆に除しむべし)。
これ以外はcFQ2f7LRuLYP.iconの管見に入らなかった
何もヒントにはならないですが、愛媛県に掬水寺(きくすいじ)という曹洞宗のお寺がありますhatori.icon 佐藤春夫にも法然上人を描いた『掬水譚』という作品があるみたいでしたcFQ2f7LRuLYP.icon いくら努力してもむだであること、効果がまったくないことのたとえ。骨折り損のくたびれもうけ。籠(かご)で水を汲む。〈日本国語大辞典〉
ためしに「籠」「いかき」などで探してみたが管見に入らず
これより表題を「ものを考えるときには、無駄なことをせよ」と解釈してみるhatori.icon
一見して何とも腑に落ちない解釈だ
ものを考えて何かを形にしていこうと望むとき、実は一歩ずつ進んで「真理」に到達することは出来ず、失敗を積み重ねていく内に思わぬ所からそれは降ってくるということ?
そもそも本当に無駄なのか、無駄なように見えているだけなのかは「結果」が分からないかぎり判断できない
得られたその「結果」すら自分がそう思い込んでいるだけなのかもしれない(局所最適解みたいな) ほんとに正法眼蔵に書かれているのだろうか?cFQ2f7LRuLYP.icon
語彙索引でたどってみたい
これは随聞記なので別のやつであった
ものを考える=思考の水面(みなも)から「水」を汲みだして分離する=考えを言語化しハッキリと形にする、と解釈してみるhatori.icon 笊で水を汲むと、初めは多少溜まっていてもザアザアと隙間からこぼれてしまう
つまり表題は「考えを確実に分離し、固定化するな」という意味?
分離していない状態が持つある種の豊かさを切り捨てるべきではない、ということ?
そもそも「水」を汲むこと、つまり自分の意識を自分で解剖するような芸当が真に可能なのか、という疑念も生じる
蓮如上人はどうご指導くださったのかといいますと、「我こころはただかごに水を入候やうに、仏法のお座敷にてはありがたくもたふとくも存候が、やがてもとの心中になされ候と申され候」というお尋ねに対して、「そのかごを水につけよ、我みをば法にひてておく(浸しておく)べき」と答えられました。 頭で忘れても、身に必要なものはちゃんと身につくは手続き記憶に近いものになる、ということか? 一滴も漏らさず考え尽くそうとするのではなく、漏らしてもいいから何度でも考えろということ?yosider.icon
桶で水を掬うと重いが、笊で水を掬うのは軽いので何度もできる
全体像を把握するのが大事で、子細は気にしなくて良い、というニュアンスもある?yosider.icon