「自分がやられて嫌なことは他人にしない」が嫌い
自分の想像力を過信しすぎ
ましてや子供というのは想像力が低いので、尚更に。
「自分がやられて嫌なこと」がわからない子供には、まず「自分がやられて嫌なこと」の定義を教える羽目に…(?)Mijinko_SD.icon
大人「こんなことして… 自分がやられたら嫌でしょ!」
子供「……?」
大人「嫌でしょ!だからやっちゃ駄目!」
子供「……………???」
親が困っている、とかの言い回しに変えて説得するしかなさそう・・
自分がやられて嫌なことの集合と、相手がやられて嫌なことの集合の間には、なんら関係性が成立しない
極端な例を出すと、人種差別などはこの論理が通用しない 人種差別はみんな嫌じゃないのかSummer498.icon
差別されたことが無い人にとっては嫌じゃないかもしれないMijinko_SD.icon
この例はなんで出したんだ?(覚えてない)biwa.icon蒸し返しあるあるな気がしたSummer498.icon
この例を言ったの僕っぽいな
相手の人種の特徴を自身が持っていないから、みたいな理由で出した気がする
イマイチな例だったなbiwa.icon
人種間のミスコミュニケーションにこの論理が通用しないSummer498.icon
日本人は家の中に靴を履いて上がるのは嫌
靴を履いて上がるのが自然な国もある
多分こっちじゃないかな
わかる〜cFQ2f7LRuLYP.icon
いじりといじめの問題などがよくありそうinajob.icon
小学生には理解しておいてほしい
ありそうだbiwa.icon
なんら関係性が成立しない言い過ぎSummer498.icon
僕は殺されたくないけど、みんなはサイコロ振るような感じで殺されたい人と殺されたくない人が分布してるん?
「自分がやられて嫌なことは相手もやられたら嫌な傾向があるけど、そうじゃないこともまぁまぁある」ぐらいの感覚じゃないかな
自分がやられて嫌な行為と、相手がやられて嫌な行為の、間に、常に成り立つような規則はない、という意味で言ったbiwa.icon
逆に、自分がされて嫌だと思うことを相手がしてきた時に、相手は不道徳な人という誤った結論にもなりかねない
気をつけたいtakker.icon
自分はこれを言われて育てられてきたinajob.icon
同様のもやもやはあるが、想像力が低いうちはある程度仕方がないのだろうか、という気がしている
僕もそんな気がしているが、もっと何かないだろうかと模索したいbiwa.icon
真に伝えるべきは、「相手が嫌がることをしない」なのかなと思うが、それこそ想像不能
まあ確かに。小さい頃は他人のことの想像は難しいので、自分の世界から想像してみるというのは、正しそうな気がするbiwa.icon
細かいケースについては、帰納的に学習できれば良いな
そしていつか、自分がされて嫌なこと と 相手がされて嫌なことに 関係がないことに気づく
でも大人になっても気づいてない人も割といそうだなとも思う
想像と現実のズレを都度修正していくんかなーって思うcFQ2f7LRuLYP.icon
相手がこうされたら嬉しいだろうという想像と、実際に嬉しいことと
どこかの段階で、自分と他人は違うので、自分がやられて嫌/良いと思う事が相手にとってそうでない事は教えるべきだと思う
相手からやられたことが嫌なら「嫌だよ」と声を上げることも教えるべき
自分は無意識にこれが苦手だった
小学生の時にこれを教えてもらって、生きやすくなった気がする
相手のことを気にするfirst stepとしてはありなんじゃないかなtakker.icon
+1mtane0412.iconshiganana.icon
背景
相手のことを考えたり想像したりすることって非常に難しい
takker.iconは全くできなかった
今はわずかにできるかもしれないが自信ない
無理だと思っているので落とし所として「自分がされたら」は有用だと思う基素.icon
より良い指標があるならそちらを採用するべきとは思う
メリット
「自分がされて嫌なことを相手にしない」はわかりやすいし実行しやすい
「自分がされて嫌なこと」はたぶん誰でもわかる
成立しないことに気づいた
「自分がやられて嫌なこと」がわからない子供には、まず「自分がやられて嫌なこと」の定義を教える羽目に…(?)Mijinko_SD.icon
めちゃくちゃ興味ない他人に対してトラブルを避けるための一つのプラクティスみたいなものだと思うmtane0412.icon
自分の想像力を過信しすぎとあるように、実行するのはかなり難しい
自分の行動をメタ視点で捉える
他者の視点取得が必要
自分がやられて嫌なことの集合と、相手がやられて嫌なことの集合の間には、なんら関係性が成立しないのだが相手がやられて嫌なことは長い付き合いを重ねてようやくわかるかどうか
自分がやられて嫌なことは全部ではないにしろ把握しているから
ある程度似通った文化圏の人間なら大きく外さない
他人を殺さないとか
逆に異文化コミュニケーションではあまり機能しないと思う
多分同調圧力とのコンボがある
個人的には「嫌なことは嫌だとはっきり言え。そして他人が嫌だと言ったことは2度とするな」ぐらいがいいと思うSummer498.icon
+1Mijinko_SD.icon
1度目の失敗は許しておくれ。そのときに「嫌!」と言ってもらって学習する
察し合う文化の足りないところを補える
別にこの心がけ自体が間違ったものであるとはそんなに思わないなshiganana.icon
「自分がやられて嫌なことでも自分が相手にするのはOK」という考え方を抑制することは悪ではないはず
それだけやっていれば万事OK、と考えるのはあまりよくない、というのは同意
そのうえで「自分がやられて嫌なことは他人にしない」という考えを指針の一つとして持つことはいいことなんじゃない? という程度の温度感
あ、それを他人に強く求めることの是非は別かも
というか、他人の行動を批判するときにこの言葉を持ち出せる場面は限られると思う
「自分がやられて嫌なことだけど、自分は相手にそれをしている」を第三者が観測できている状態が稀
自分がされたら嫌なことを相手にしない、自身が尊厳のある道徳的な人間であれば、十分に良い精度がある原則だし、良さそうだなと思い始めたbiwa.icon
嫌いではない
代替案
...
答えは沈黙cFQ2f7LRuLYP.icon
書き足していくbiwa.icon
原則として
相手に強制することはだめ
強制しても良い条件
親しい仲である
感謝を言う
うーん、いまいちこれだってのが出てこない
嫌なことは嫌という、嫌そうだったら謝り反省する、
論理的には、「自分がやられて嫌なことは他人にしない」と「自分がやられて嫌ではないことは他人にしてよい」は等価ではないblu3mo.icon
「自分がやられて嫌なことは他人にしない」の対偶は「他人にしてよいこと ならば 自分がやられて嫌ではない」 このページでは前者が後者をimplyすることが前提となっていそうblu3mo.icon
確かにbiwa.icon