メタファーを用いて思考を進める人と相性がよい
rashita.iconの感触だが、何かを考えるとき・何かについての思考を進めるときに、メタファーを用いる人との相性が良い気がする。
もちろん、rashita.iconもそうだからだ。
むしろ、それ以外の思索は意識的に行う必要がある。
アプリケーションをダブルクリックで立ち上げるような意識的な操作(←ここでもメタファーを使っている)
rashita.iconぐぐって、『メタファー思考』という新書を見つけたので購入してみた。 同じ著者の『書くための文章読本』も気になる。
rashita.icon
比喩は、具体そのものではなく、具体を通した抽象性を視野に入れている
あるいはそちらがメインターゲット
ただし、その抽象度は高すぎることはない。
なぜなら、具体そのものを通して抽象性を見ているから
ikkitime.icon黙々と考えるときまでは比喩を使っていないかもしれないが
人に説明するときは結構使うかもしれない。
伝える(結果としての“伝わる”を)を目的としたら、相手の中にあるであろう構造を間借りして説明するのが楽で効率的だからかな?
「人に説明するときは」ということは、「脳内で仮想問答をしているとき」にも比喩を使っているかな?
rashita.iconはバリバリ使ってますね。
そういえば、世の中には「脳内で仮想問答をする」というコンセプトを持たない人が存在するのだと以前知って驚きました(妻なのですが)。
ikkitime.icon「仮想問答」って、特定の他人というよりは、“超自我”に対して申し開きをしている感覚が多い部分があり、
ひょっとして一神教的な感覚が一部あるのかもしれません。
rashita.icon概念を構築、ないしは説明(あるいは説明を通して概念の構築・検討)をしているときは、申し開きの感覚は薄くてわりと、「つっこみ」が超自我の役割であり、その場合はわりと脳内特定個人(私の場合は脳内Tak.さんが多い)と問答している感じがありますね。
自分の行動の正当性を確認する場合は、また違うかもしれません。
考えるとき/比喩を使っていない/人に説明するとき/使う
違和感nishio.icon
逆だと感じた
考えるときに個人的メタファーを作って考え、そのメタファーは他人には伝わらないのでメタファーでないものに変換してから伝える
タイトルの「メタファーを用いて思考を進める」から連想したのはこちらのプロセスだった
ikkitime.iconそういえば、比喩的思考をする人がatomicなアウトプットをする場合、「思いついた比喩」だけのページを思考から切り出しておかないといけなくなるだろうか? 個人的な感覚だと、思いついたものをそのまま書くのではだめで、ある種の変換・加工が必要になる、という印象ですね。
Scrapboxの場合は、まず書いておき、それらを書き換え、編集しながらアトミックにする、という感じがあります。
アトミックなものの抽出、あるいは関数化(サブルーチン化)と言えるかな。
たとえば、「テキストファイルで何も指定せずに保存すると.txtになる」はメタファーですが、このタイトルのページを作ればOKか、というとそうではない気がします。
で、いったん「テキストファイルで何も指定せずに保存すると、.txtになる」と書いておいてから、「アトミックに言い直す」感じが近しいか。
たとえば、「プリミティブな思考のフォーマット」がおおむねこのメタファーが表していることだろうと、あたりをつけていく。
で、「プリミティブな思考のフォーマット」を先に書こうとすると、rashita.iconはだいたい頓挫します。「そうではない」感じが強いというか。いったん書いておいて、それを「言い直す」というやり方が、いまのところ最適ですね。
nora.iconメタファー使いの人が自分の思索に抽象的な単語でタイトルをつけようとすると独特な抽象表現になる気がする、と今気がつきました。
nora.icon比喩的認識は具象のイメージを用いながら「具象と具象の間にある抽象」を探っている状態で、それは必然的に、既に使い慣れた抽象イメージで言い表せていない領域の探索にならざるを得ないのかも。
nora.icon「アトミックに言い直す」とき、見慣れない抽象領域を更に見慣れない抽象語彙で表現するみたいなことになるので、客観的に見て字面からイメージの解凍が難しいタイトルになっていく印象です。
nora.icon過去の自分がアトミックに言い直して付けたタイトルの意味がパッとわからなくて自分で困ることがある。
rashita.iconそこで違和感駆動です。今の自分でもわかるように言い直すことが、プログラミングにおけるリファクタリングに相当すると思います。園芸で言えば、植える場所を変える(植え替える)が近いか(またメタファーだ)。 nora.iconなるほど! あるいは、「鉢植えを替える」というイメージもありうるかもしれません。そのものはそのままですが、印象やその後の育ち方が変わるというか。
nora.iconメタファーは必然のように感じ取ったものだけど、そこからアトミックに言い直す工程にはあまり必然性を感じていないので、そこの変換作業に於いて自分が意図したものを時が経つと忘れてしまう。
nora.iconメタファー使いでない人がつける抽象語彙のタイトルは、その人にとってむしろそっちが必然?
rashita.iconこれが気になりますね。妻にScrapboxを使ってもらおうかと思いましたが、まあ拒否されるでしょう。そもそも記録することについてのニーズを感じないかもしれません。
nora.icon
比喩的思考をするタイプですが、私の場合メタファーは目的があって考え出すものではなく、何かを考えた時に既にそこにあるイメージなので、atomicにものを考えるにしても、メタファーはそこの核にあって外に切り出すことはない感じがします。(伝達のために表現の中には逆に使わずにおく場合はあります。)
rashita.iconこれは同じ感覚ですね。テキストファイルで何も指定せずに保存すると、.txtになるのと同じで、ナチュラルに比喩的に考えているというか、それはもうそこにある、という感じで、それを他者に伝えるときも、やっぱり比喩になることが多い(ただし、自分がコアに持っているそのイメージそのものではなく、それを聞く人が理解しやすいイメージを選択している感じがある)
そしてここでも出てくる比喩的イメージ。
メタファーとして降臨するイメージを人に伝達するために、やむなく「一般的標準的な言い回し」という服を着せて表に出している感覚もあります。(この場合、「服を着せる」というイメージは「わかりやすく伝えるには」という模索を始めるより手前に存在しています。)
キリストや仏教にもたとえ話が多い