アウトライナーの使い方ド下手問題
アウトライナーが使い続けられない。その理由として「自分で集めた情報が自分の望まない形に複雑化している」が挙げられている。 それは「情報の集まりが自分のイメージ通りに育っていかない」でもあり。「結局どこに何を書いたのかよくわからない」という事態も引き起こしている。
情報をスッキリ整理するためのツールなのに、何故か煩雑化している!
のらてつさんは、アウトライナーというツールが悪いのではなく、自身の使い方が下手であるからとして、その理由と解決策を上記の記事群で検討されている。
アウトライナーの使用歴として挙げられているツール
Dynalist
Transno
Orgzly (Androidアプリ)
ハルナアウトライン・KLOA (階層化テキストを用いたAndroidアプリ)
Quartet Editor (階層化テキストを活用するテキストエディタ)
Mery(アウトライン機能のプラグインがあるテキストエディタ)
Wordのアウトライン機能
一瞬試したものも含めれば他にも数多あるが、だいたいこのくらいのものをある程度の期間使い、やがてフェードアウトした。それぞれどのツールも何度もアタックしては徐々に砕けていっていつしか砂になってしまうという経緯を辿っている。(アウトライナーを使えないこととアウトラインプロセッサーを使えないことは、部分的に共通しつつも根本的に異なる層の話だが、いずれにしろうまく使えていないという意味で併記した。)
rashita.iconアウトライナーとアウトライン・プロセッサーは違うツール?
冒頭の「下手である」は、どうして私はアウトライナーとともに情報管理の「系」を作り上げていくことができなかったのか?という問いに言い換えられている。その理由として以下の二点が挙げられている。
「きちんとしている感」に負けている
「きちんとしている感」に負けている
アウトラインを作ることはしている
ところで前回書いたようにアウトライナーの使い方はド下手なのだが、それならアウトラインを作らないでいるのかと言えば、そんなことはない。前回挙げたアプリまたはソフトウェアにその場限りのファイルを作ることもあるし、テキストベタ打ちで実質的なアウトラインを組み上げることもある。また小説を書く趣味があるので、プロットは作品ごとに何かしらの形で構成している。この記事はクラウド型アウトライナーのTransnoに作ったアウトラインを元に書いている。
出来はどうあれ、アウトラインを考えて順番を検討して文章にしていくという工程は習慣になっている。
アウトライナーでは箇条書きの入力が基本
さて、アウトライナーというものは(アウトラインプロセッサーではなくアウトライナーは)、要素を全て箇条書きで入力することが基本である。
各行にノートを付け加えることは可能だが、全体をコピペしようとしたときの挙動なども含めて考えると、ノートを「文章を書く場所」として積極的に使うのはあまり現実的でない。そもそもそこに文章を書いてしまうと、アウトライナーの最大の特長である「項目の操作」が自由にできなくなってしまい、本末転倒な事態に陥る。
よって、アウトライナーに何かを書くならば箇条書きの形で書くことになるのだが、ツールの形式が箇条書きだと、「箇条書きにする」という意識が自分の中で強く働く実感がある。
つまり、「その要素を、そこに置く」という意識が生まれるのである。
それがプラスに働くことはもちろんあって、プラスに感じているうちはどんどん書いていくのだが、時々それが足枷になる場面にぶち当たる。
新たに思いついていることが、既にそこにある項目と何かしらの関係を作り上げられるとか、あるいは単体で新たな骨格を導く力を持っているとか、要は「そこに書く」ということにそれなりの納得感があるならば良いのだが、そうではない思いつきというのが必ず生まれる。
その時点でどこにも位置づけられないものを、しかし箇条書きである以上は「位置づけられないという項目or場所に位置づける」ことにせざるを得ないという事態が発生するのである。(これが違和感になるかどうかは個々人の性質によるものと思う。)
そしてこの「どこにも位置づけられない思いつきの集合」が比較的短い時間で解体されていくのならよいのだが、ある程度はどこかへ巣立っていかせられても全てに就職先を斡旋できるわけではないし、もしデイリーやウィークリーで区切るということをしないならばむしろ膨張していくばかりである。「位置づけられないという場所に位置づけられた情報」が、どこかに位置づけられたいというメッセージを放ちながら、ほとんど無秩序にごちゃっとまとめられたままになる。いつか使えるかもしれない原石の山、と大きく構える心は残念ながら持てずにいる。
これがもし、日記帳に書かれた一文やTwitterに放流された一言ならばこういう不本意さは生じないだろう。その文言に「より適切な居場所」を与えて活用を期待する気持ちが、自分の中にないからである。それを後から活用できたとき、それはあくまで「ラッキー」なことに感じるのだ。
ここでの「どこにも位置づけられない思いつきの集合」は、rashita.iconがアイデアと定義するもの。
たぶん『Scrapbox情報整理術』でもそのように位置づけていたと思う。
アウトライナーは総じてとても美しい見た目をしている。
ごちゃごちゃとしてない。アウトライナーに入力すれば、自然と見た目的秩序(整理と整頓で言うところの、整頓)は生まれる。
つまりアウトライナーは、見た目からして「きちんとしている」感じがする。「きちんとさせていく」ためにある(と私は解釈している)ツールなのだから、それは当然とも言える。生活感溢れる雑然とした場所では思考の整理も難度がやや上がりそうである。
言語化(表現)のジレンマ
何かを言葉にするとき、その「何か」は、言葉で言い表しきれるものではない場合がよくある。言葉にした瞬間に姿を表すタイプの概念もあるが、逆に言葉にしてしまったことで解釈の方向を絞ってしまい、あり得た可能性を削ぎ落としてしまうこともある。その感覚は量子力学の「重ね合わせ」と「観測」のイメージに少し似ている。頭の中のイメージをどんな言葉で表すかは、完全なランダムではないにしろ、その瞬間の脳の状態によってある程度左右されていて、書き表わそうとした瞬間の状態でそこに生まれる結果が多少変わるのである。(※私は完全なる文系人間で量子力学の知識はほぼない。)
しかしながら、イメージを少しでも削ぎ落としてしまうことを恐れて一切言語化を放棄すれば、何も生み出すことはできなくなってしまう。不完全な形であってもまず目の前に置いてみなければそこから次のイメージへと渡っていくことは難しい。言語化に限らず、絵や図やその他のあらゆる表現方法にしてそれは同じである。頭の中を完璧に再現することは不可能でも、とりあえず何かは出力しなければ先に進めない。
具体的には、極端な例を挙げると「これがさ~なんかさ~なんかこうもやっとしてるんだけどさ~」というようなノイズっぽい情報である。これをそのままアウトライナーに書き込むことは、別に誰にも禁じられてはいないがどう見ても相応しくはない。
ここから逆に、箇条書き性がどのようなものなのかが立ち上がる。ノイズっぽいものが削ぎ落とされた、情報それ自体であるようなもの。
この一文に含まれる情報量は多くないし、如何にも文字の無駄である。活用もしにくい。しかし、これを「未解決」「納得していない」などと書き換えた時、その場にあった気分の情報は失われている気がする。そのことについて、自分はそんなに合理性を追求する頭で思索していたわけではないのに、「未解決」「納得」というカタいワードが自分自身を合理性追求マンっぽく仕立てている感触があるのである。
「未解決」や「納得していない」に書き換えることは、何なのか?
リネーム(ファイルの中身は変えずに、ファイルの名前だけを変える)ことではないだろう
パラフレーズでもないし、翻訳とも違う
結果として起きていることは、
効率性の達成に向けたコンテキストの削除(豊かなコンテキストは効率性に向かない)
「定型文(表現)」の使用→効率性に関係しているが、それ以上の意味がある
今の自分と、後の時間においてそれを読む自分とのコンテキストエラー(ないしはプロトコルエラー)
「違うそうじゃない」感、「これって何だったっけ?」感
規格化、だろう。もっというと正規化。
情報が規格化されている、表現が規格化されている。
「箇条書き」という場のオーラに引きずられてしまうのである。
逆に、私たちは「箇条書きの書き方」を学ぶこともしていない。
どのようにして私たちは箇条書きを仕えるようになるのか?
上記の話が、「箇条書きという形式の引力」と「ツールの洗練された見た目」でまとめられた。
続いて、『倉庫』として使おうとしていたについて。
倉庫の意味合い
きちんと保管される場所→情報がエネルギーを失い静的になっている
結論から言えば、アウトライナーというのはあくまで「動的」でなくては固有の特性が有効に働かず、静的に落ち着いている情報は(アウトライナーでの管理が不可能ではないにしろ)他にもっと適したツールがあるのではないか、ということになる。
それはそうなのだが、ならば「動的」と「静的」の境界はどこにあるのだろうか。
アウトライナーにアイデアを書き溜めていくと、後から見返した時の思考の再現性に不安を感じることがある。書いた時にそこに込めたかったイメージを、自分自身が完全に思い起こすことができない事態が発生するのだ。無論それはアウトライナーというツールのせいではなく、全て思い起こせるように書いていない自分に問題がある。
なぜ再現性を保つように書けていないのか。それは文脈を示す情報を削ぎ落としてしまっているからである。
箇条書きの問題、対策としてのDOを書くこと
作家の構想が箇条書きのまま本になることはないように、人に情報を伝達するには必ず「肉付け」をしなくてはならない。たとえ、読者が作った読書メモが結果的に作家のアウトラインとほとんど似通った形になるとしても、作家と読者の間には周到に肉付けされた文章が必要である。肉付けとはつまり文脈である。もう一歩突っ込めば、文脈とは「他の解釈の可能性」を断って読み手に一本の道を確実に歩かせるものと言えるように思う。
解釈の有限性
日記が面白いのは、そこに文脈が保存されているからである。むしろ文脈こそを保存したいと思って書くものだから、後から読んでもその時の状況と感情を鮮やかに再現して追体験することができる。
それを書こうとすれば主観が混じらざるを得ず、客観的な資料にならなくなるからだろうか。内容によってはそれもあり得るだろう。しかし実際には、文脈を意識的に排除しているというよりも、文脈を記す必要を感じていないから書いていないだけではなかろうか。昨日も一昨日も明日も明後日もおおよそ同じ空気の中で生活するならば、わざわざ「今どういう状況か」を書き記そうとはしないだろう。
今ここにある文脈は言わずもがなのものであり、それを網羅的に言語化するのは億劫である。ひとつの環境に居続ければ、対比させるものがなく(ぱっと思いつかず)、絶対的な尺度で描写しようとして疲れ果てる。「一年前と比べてみよう!」「前の職場と比べてみよう!」「理想像と比べてみよう!」という問いを用意してもらえれば筆の動きも滑らかになるだろうが、そういう問いの必要性を認識していなければ自力では思いつきにくい。
何かを思いついて書き込んだ時、それを思いついた土壌の説明はその場でいちいち書き添えない。そうしないことでスピード感を維持できるのであって、文脈の言語化に意識を割いてしまうとその分だけ「まさに今動かしたいもの」を動かすためのエネルギーを奪われることになる。そして「まさに今動かしたいもの」はアウトライナー上には常に存在していて、文脈の言語化に取り組むタイミングはなかなか来ない。
これが「メモ」ということ。
メモはノートではないし、カードでもない
文脈を欠いた情報は、時が経てばそれを再解釈するという手間を生じさせる。すると、自由に動かして活用することが困難になる。つまり、その情報はもう「動的」ではなくなる。過去のいつかの情報をただ保存しただけの「静的」なものになってしまうのである。動かすことができない情報にはアウトライナーで扱う必然性はない。
しかしながら、文脈を明らかにするための情報をごちゃごちゃと添えた場合、それもまた動きを鈍らせる可能性がある。アイデアは異なる文脈にワープすることが少なくない。その時アイデアに添えられた文脈をどう扱うかで悩むことになる。書式の工夫などの解決策はあり得るが、ノイズはなるべく少ないほうが良いだろう。ルールでどうにかしようとすると、そのルールを忘れた時にまた困ることになる。動かし方に悩んだ時にはもう「静的」な情報に変わってしまっているのである。「動的」であるためにはアイデアたちは身軽な方が良い。
すなわち、文脈がくっついたアイデアは「動的」でなくなるが、文脈を欠いたままのアイデアもまた「動的」でなくなっていく。
なぜ「未来の自分」を想定するのか。それはアウトライナーのそのページを、未来の自分も使うものと考えているからである。糠床のように毎日手を加え、育て、味わい続けることをイメージしているのである。いつの間にかそうしようと指向していたが、それは当たり前のことなのだろうか。
ここで冒頭に出てきた情報管理の「系」という言葉に帰ってくる。それはどのような内実を持つものなのだろうか。
つまり、私はアウトライナーをもっと「今」のものとして捉えるべきだった。
「過去」「今」「未来」のツール
アウトライナーは、まず第一に「今」考えているものを即座に捕捉して保存してくれるものなのである。「今」書かないと永久に失われかねない着想を、不意の強風に飛ばされる前にキャッチして目の前に固定してくれるものなのだ。
これはメモの役割で、アウトライナー以外でもこなせる。
そうして可視化されたアイデアたちを、「今」の文脈が自分の頭の中に当然のものとして流れている間に――個々のアイデアに文脈を書き添える必要など生じないうちに――上下左右に動かして形を作っていく。「今」考えるべきことをアウトライナーで構成し、速やかに決着をつけてしまうのだ。
「今」の文脈が保存されている間に操作するものだから、それは短文・単語つまり箇条書きで構わない
使い道が見いだされないまま「今」の範囲から漏れて置き去りになるアイデアは、文脈を失ってしまう前に書き添えてきちんと保管する。状態としては一度「静」になってしまうが、いつでも「動」に復帰できるようにセッティングするのである。保管用のファイルまたは区画をアウトライナー内に作っても良いだろうし、私は別の場所の方が感覚に合うので例えばObsidianに保存することになる。
いつでもアクティブにできる状態にする
どこかでrashita.iconがこれについて言及した気がするので、あとで調べておく
待機状態、というようなこと
以上のことを一言でまとめるならば、個々の情報を動的に保ち続ける工夫に労力を費やすのではなく、情報を扱う場であるアウトライナーをこそ動的に保つという意識を保つ必要があった、ということである。
とりあえず、ここまで。これを整理する。
玄武.iconとりあえず、のらてつさんのアウトライナーの中身が実際どの様なのかが気になりました。
アウトライナーとしてみたときのOmniFocusはかなり特殊だと思うので、そのあたりを自分は整理してみようと思います。
この連載の「はじめに」で、「どうして私はアウトライナーとともに情報管理の『系』を作り上げていくことができなかったのか?」と己に問うた。
その答えとしては、「アウトライナーの"中"に『系』を作り上げようとしたから」であると言えるかもしれない。
本当は、アウトライナーを含む、もっと大きな「系」を考えなくてはならなかった。
玄武.iconその昔nami2000というWindowsのフリーソフトのアウトラインプロセッサで全ての情報を一つにしようとしていた(そして力尽きた)のを思い出しました。
nishio.icon
このページは面白そうだがアトミックというには大きすぎるように思うので刻みたい
だが「このページを」というより、まず大元のページを読むべきだなー(引用文だけでは掴みきれない)
タスクが大きい…
ちゃんとやろうとするとやらなくなるから雑にコメントだけつけとこう
のらてつさんは頭が悪くないように見えるが、それなのにうまくいかないとするなら、それは何か適切でないミームをlearnしてしまっていてそれが妨げになっているのでunlearnする必要があるように思う nora.iconそういう話を延々書いたのが元の文章です。 nishio.icon1行で要約される話なのであれば読まなくていいかw
nora.iconえ?
nora.iconまさかと思いますが、のらてつは私です。
nishio.icon???ちょっとコメントの意味がわかりません、もちろん理解しています
nora.iconあなたの仮説に対して文中で書いているので読めば答えがありますという意味で「言葉を尽して書いた」と答えたつもりですが、自虐的に「延々」などと書いたために思いもよらぬ解釈をされて驚きました。
nora.iconすみませんが、「読まなくていいかw」はかなり嫌な感じがしました。まあ、面倒なら結構です。時間は有限ですし。
nora.icon私の感覚では書いた人本人にぶつけられる言葉ではなかったのでまさか私が本人だとお気づきでなかったかと思いましたが、それは勘違いでしたね。失礼しました。
nishio.icon言葉のチョイスが不適切であったことに関してはすみません。
nishio.icon言葉を補うと
「のらてつさんの書いたこの文章は面白そうだが明らかにアトミックでない、
アトミックにすると有益そう、
しかし長いので大変、
目についたところだけピックするとXになる」
(のらてつさん本人)「そのXで要約される話を延々と書いたのが元の文章だ」
「本人がそういうなら元の文章を読む必要はないか
(なぜならXの方が求めていたアトミックな要約に近いのだから)」
という流れです
引用文だけざっと見てきな臭さを感じたのはここ
アウトライナーは総じてとても美しい見た目をしている。
つまりアウトライナーは、見た目からして「きちんとしている」感じがする。「きちんとさせていく」ためにある(と私は解釈している)ツールなのだから、それは当然とも言える。生活感溢れる雑然とした場所では思考の整理も難度がやや上がりそうである。
これに対してコメントがついてる
ごちゃごちゃとしてない。アウトライナーに入力すれば、自然と見た目的秩序(整理と整頓で言うところの、整頓)は生まれる。
この表現のニュアンスを僕が勝手に汲み取って拡大再配信するとこうなる
「それは見た目的秩序であって、本来の秩序ではない」
「それは整頓であって、整理ではない」
見た目的秩序は、もちろんないよりはあった方がいいが、優先度は低い
他のものを犠牲にしてまで見た目的秩序を求めるのは、本棚を本の意味ではなく本の物理的サイズや色で整頓するようなもの
可視化されたアイデアたちを、
個々のアイデアに文脈を書き添える必要など生じないうちに
nishio.icon必要が生じたら書き加えたらいいのでは?何と戦ってるの??
上下左右に動かして形を作っていく
「今」考えるべきことを
速やかに決着をつけてしまう
nishio.iconこれがこざねが果たす役割であることには同感だけども「これはこざねの役割」という表現をすると「これはアウトライナーでやることではない」的な誤解が生じるのでは
アウトライナーの1行がこざねに対応する
rashita.icon「今」の文脈が保存されている間に操作するものだから、それは短文・単語つまり箇条書きで構わない