雨宮庸介展|まだ溶けてないほうのワタリウム美術館
https://gyazo.com/10419163c1f054164274c64a16d0827e
3/27 https://x.com/testtesttestts5/status/1905197342896402653
ワタリウム美術館 雨宮庸介展|まだ溶けてないほうのワタリウム美術館 を見たのだが、VR展示の受付を名前だけ書いてモタモタと他の展示を回って戻ると受付が終了していた。そういえば渋谷行く用事が月末にもう一度あるので余裕あればチャレンジ。ロッカーの入り口、溶けるリンゴ、色鉛筆で描かれた本物と見紛うような立体のソファー、ユーモアの作品ばかりで楽しいが、このユーモアは見た目と中身の違いに着目していて、鑑賞者はその作品の構造を理解すると表面と形に分解してしまう。これは平面でいう線と色に近いが、僕らの目が光の受容体である以上、立体における“色”を見ることができない。立体物を見る時、周りの様々な情報から推測しているにすぎないことが示される。この「推測」は雨宮庸介の母親の筆跡を学習してAIが作り出した石巻という字に繋がっている。また、見えるものから世界を構築してしまうというのはまさしくVRだろう。VRは見れなかったけど不在がよりVRとは何かを考えさせたのかもしれない。
追記として、インスタレーション作品《石巻13分》の記録映像を見ることができたが、かなり良い映像だった。最近、美術館で見る映像作品の苦痛さをよく感じるので……
映像インスタレーション
実は上記の感想から雨宮氏からリプライがあり、VRでの展示の枠をとっていただくことになった。行ける時間が午前中しかなくもしかしたらお気遣いいただかなくても体験できたかもしれないが、とてもうれしかった。
3/29 https://x.com/testtesttestts5/status/1905861326699979059
VR作品、おそらく1番いい位置で見れた。HMDを被った時と外した時の景色が変わらない。XRの状態だった。文章が朗読され、一対一で雨宮庸介の話を聞く。同じ空間で他の人たちも一対一で話されているのだと思うと不思議で、それぞれの顔の向きで見ている内容が違うと考えれば、作品内に出てくる言葉「普遍2.0」を体現している(逆にこの作品とはなんなのかを作品内で言及していると考える方が自然か)のかもしれない。
前回訪れた時に、表面と中身についての作品群だと思ったが、VR作品内では雲と霧に例えられていた。内側に入ると名前が変わる。建築もそうなのかもしれない。途中屋上という中であり外である場所に連れて行かれるのも示唆的だった。前回はっきりと分離させられた表面と中身が雲のように曖昧になってしまった。
単純に映像作品としても面白く、VR内でHMDをつけさせられるときに一度確認してからつけさせられるなどの小さなこだわりが現実感を強めていて良かった。
今日は雨がしっかり降っていたがVR内は、まだ雨が降る前の美術館だった
《石巻13分》も含め、本当は言葉の韻の固さにも本当は着目したい。韻は全く関係ない二つの物事を繋げることのできる技法で思わぬモンタージュが詩情を生む。志人による協力もあってかとても良い。ただこの話は、谷口一平や永井均がTwitter上で言及していた「よい哲学的主張は、論理空間では必ず韻を踏んでいる」という仮説や、大喜利での回答の中に詩としかいえないものがあること(鈴木ジェロニモのように詩かつ大喜利を成立させている例もある)、千葉雅也のギャグ論に通じ始め、僕の思考と知識では手に負えない。
大喜利
@YosukeAmemiya: Twitterでお見かけしてほぼ唯一「え、VR観にもう一度来ませんか?」とお声がけしてしまいました。厚かましくてすみません。
めちゃくちゃ面白いツリーでした。多分ほとんど触れられたことのない韻の話とか、このツリーにある元素たちだけで何時間でも議論できそうです。次以降の良い検証材料とさせていただきます。ありがとうございました。
とてもうれしい
改めて行ったときに二階の空間から三階のVRをしている人たちを見ることができることに気づいた。
これもまた表面を見て中身を思うような鑑賞
あんま人のことジロジロ見るのもと思うが、向こうはHMDしているので見えない
HMDをつけるとわかるが、2階の空間が見えることの方が大事だった。
2024年 12月21日[土]- 2025年3月30日[日]
ワタリウム美術館