数学と計算機と美学
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数学
数学はどのようにデザインやアートの文脈に落とし込むことができるのだろうか かつてのジェネラティブアートにおける「ジェネラティブ(生成的)」は、どちらかというとCGにおける「プロシージャル(手続き的)」に近いものであった。
時代を遡れば、コンピュータが普及する以前の20世紀前半に活躍したデザイナーであるブルーノ・ムナーリの活動に、私はジェネラティブアートの萌芽を見いだす。 「芸術家は機械に関心を持たなければならない。ロマンティックな絵筆を捨て、埃まみれのパレットやカンバス、イーゼルを捨てなければならない。機械を解剖し、機械の言語、本質を理解していかなければならない。その機能が屈折した形で果たされるように機械を再設計し、芸術家一人一人の手段によって機械それ自体との芸術作品をつくりあげるのである。」
クリエイティブコーディングは、実務的な処理を行うためのプログラミングに対するカウンターとして創造的なプログラミングを志向する行為に由来する。これはムナーリの「役に立たない機械」にも通底する思想でもある。
そういわれるとはじめて触れて実践したジェネラティブアートは「木をかこう」かもしれない。uesən.icon 織物とコンピュータの関係は深い
コンピュータの祖先として知られるジャカード織機では、パンチカードにそのデータが格納されていた
ここまでの話では主にグラフィックスの生成について考えていたが、それよりもデータ量の軽いサウンドメディアにおける生成的手法の方が歴史的には先立つ。
ゾンビ(AI)が主流になった世の中で重要なこと
かつて「ジェネラティブアート」と呼ばれたものにあった美学が何であったか、それを継承するものは何かを考えることが重要であろう。ムナーリの言葉を借りるならば、それは「機械を解剖し、機械の言語、本質を理解していかなければならない」。ジェネラティブアートはマテリアル/プロシージャ/マシンがつくるアートとして立ち返り、マテリアルの持つ本質的な力をプロシージャとマシンによって引き出しているかという視点が必要である。プロシージャを分析して吟味することで、「機械を再設計し、芸術家一人一人の手段によって機械それ自体との芸術作品をつくりあげる」。
さらに、俗っぽい言い方をするならば、ジェネラティブであることの「カッコよさ」がそこになければならない。平野啓一郎は「カッコいい」とは何かということについてさまざまな論点から考察しているが、まずそれは個人的なアイデンティティと深く結びついた多様なものであることを挙げている(注9)。 (中略) また平野は、「カッコよさ」には「恰好の良さ」という外観の美だけでなく、しびれを伴うような生理的体感があることを指摘している。
その他固有名詞/キーワード
ジェネラティブアートとは大まかにいって自律的要素を含む芸術表現のことである
(中略)計算機こそ使わないものの、盆栽は人と植物のコラボレーションによる、自律性が組み込まれたアートだ。
Processingが単に幾何学図形の可視化ツールとしてではなく、アートを創るための道具として普及したのは、Processingにノイズ関数が組み込み関数として入っていたことによる影響が大きいだろう。