最も個人的なことが最もクリエイティブなことだ
https://www.youtube.com/watch?v=PsohbKP-gEk
自分もそれで知った。
https://youtu.be/YjKHQZcx9jw?si=q13pNjn9yGh0xUSI&t=111
映画の中で落語が流れるシーンがあり、わかる人がそれで喜ぶような仕掛けになっているという話の後
蓮實重彦「他にも結構 (わかる人にはわかるような) 喜ぶようなシーンって撮ってらっしゃいますか?」
北野武「あ、なんかあの、変な感じなんですけど、映画を撮る時に1つのエピソードをやった時に、それを知ってるやつにメッセージを送っちゃう時あるんですね。 それはあの、高校の仲間とか中学の仲間の、まさか5人か6人かいないやつに、その映画を通して「このシーンだけメッセージ送ってる」とこがあって。それがたまらなく好きなとこあるんですね。
だから『キッズ・リターン』で上からほうき吊るしたのも、実際やったことだし。あれほうきじゃなくて実際の人間吊るしたんですけど、2階まで下ろしたらロープが切れてしまって、そいつ足骨折しちゃったんですけど。 あれ布団で下ろしたんですけど、でまあ停学にはなったんですけどね。 ああいうのはその当時のやつにメッセージ送ってるとかあるんですね。”どうだ、こんな世界あったろう”っていうのがあって。
でもその、あの、日本の何人かいない人に対するメッセージでも、そのエッセンスは意外に、それの事実を知らなくても、その当事者でいなくても伝わるようなシーンがあるんじゃないかって気がするんですよ。 そうじゃないと映画っていうのはありえないわけで。 だけど基本的には、わずか3人にメッセージ送るようなシーンもかなりあるかもね。」
このあと侯孝賢も個人的なエピソードを交えて質問する こっから下は若干別トピック
@goromurayama: 美大で教えていると、現代の芸術表現の在り方が難しい局面にあることを感じざるをえない。端的に言うと、極めて私的なモチーフからしか表現を出発できない学生が増えている。 (以下、ツリーで書きます)
このツイートから美術周りのパーソナルなこととモチーフの選び方に関するツイートが散見されるようになった
ちゃんと読むと、美術的には個人的なものとデカい何かをつなぐ方法がまだ開発されていないからとりあえず作ってみてその中に自分を見つけて接続してみてはという話。
なんかわざと学生が悪いみたいな文にしてそうでなかなか炎上商法的にみえるな。美術側がまだ開発できていないという話なのに。
@nakashima001: 美術を教えてきて思うのは、美術は「普遍一般」への探求などではなく「愛」によってできているということ。「社会」を嵌み出し、超えていく「個人」の機動によって、私的かつマージナルな場として生成されてくるものであるということ。 「普遍一般」という言葉から村山悟郎のツイートへの応答だと思うけど、やるべきといっていることは同じ。
@pinetree1981: 最近気がついたこと。むかしから美大のファイン系の教育では制作と展示のための「リサーチ」「コンセプト作り」「美術史における位置づけ」みたいなことが重要視されてきたけれども、そうやって作られたものはたいてい俺の目には株券の亜種のようにしか見えないのだな。世の中には四季報やローソク足チャートをながめてるのが楽しいという変わった人もおり、たとえば美術史やってる人の多くはそういう変人の美術バージョンだと考えて差し支えないと思われるのだが(俺なんかは結構そういうケがあるが)、彼らの言うことを鵜呑みにしすぎると創造性とか批評性が犠牲になると思うのだよな。 四季報読んで株券買うのと同じ感覚で「これはウケるんだろうな」みたいに判断するんじゃなくて、これおもしろいなと素朴に思わせてくれるような作家がいっぱい出てくるといいですねという。
なるほどリサーチやコンセプトづくりと関係してくるんだ、この話は。
リサーチをしながらきわめて個人的である弓指寛治のインスタレーション作品はやっぱすごい。 弓指寛治が映像出身で、ドキュメンタリー的な作りになっていることが北野武の発言とつながってくる。
もしかしたらリサーチ先の人にしかわからない小ネタがいくつか仕込まれているのかもしれない。
@makotoaida: 僕は自作の現代美術ために特別にわざわざやるリサーチは禁じている。それが今の世界的大流行であることは重々承知の上。 理由は「学者ゴッコは恥ずかしい」という個人的な人生美学のためのみ。