車輪の再発明
車輪の再開発と結構書いてしまっていて恥ずかしい。駅前か。
結構なツイートがこっちなってしまっている。きゃー
車輪の再発明の指す「再発明」とは一体何のことか
すでにあるものを知らずに同じものを作ってしまうこと
なのでエンジニア界隈(?)では悪い例えとして出てくる
教科書に乗っている科学の実験をなぞったところでこれは再発明ではない。
もう一度初期の映像装置を作り再考すること。
これってもしかして再発明ではないのでは……?上で言えば教科書をなぞる?
しかしながら違う表現を模索する。履き違えが発生すると新しいものになる。 ツイート
まぁなので、人間にとって重要な構えは、完璧な作品を作るための理論の確立よりもまず、例示を見た時に、「ということは〇〇もありか…?」と実際に手を動かして考える力、ということになる。「霊感を受けて再発明をする力」と言い換えても良い。(だんだん内田樹みたいな物言いになってくる)
アーティストというのはやはり、(古めかしいけれど)「ブリコルール」であるべきだと思うし、何度でも「失われた車輪を再発明」する存在であるべきなのだと思う。 「車輪の再発明」は公知の技術を再度一から考えてしまうことを愚かしいと揶揄する言葉だが、再発明「できる」ことはとても大きな力である(再放送)。
ここでは再発明「する」こと以上に「できる」ことに重点が置かれている(再放送への註釈)
上記から考えると、いわいとしおは「する」こと、gnckは「できる」ことに重点をおいているのかもしれない。
「例示を見た時に、「ということは〇〇もありか…?」と実際に手を動かして考える力」というのはまさしく、いわいとしおの展示と同じことを言っている
車輪の再発明が車輪の再発明であることを示すためには、発明されたあとに車輪がそれ以前からあったことを知らなければならない。しかし、「失われた車輪の再発明」だった場合はそれが本当に発明されていたのかどうかを知る由がない。
再発明が「できる」ことに重点を置くためには、教科書をなぞりつつ「霊感を受けて寄り道」をする必要があり、その結果が「再発明」かどうかは論点ではない。
これを少し勘違いして「する」ことに重点を置くと模倣(教科書)だけで終わってしまう。
gnck - 自己模倣の何が良くないかと言えば、作品に潜在する可能性を掬い取る仕事ではなく、むしろその可能性を殺す仕事と化しているからだ。連作でも、この違いは作家によってはっきりとわかる。