認識論としてのマルコブランケット
内部性の哲学
内部性の説明。
自由エネルギー原理からすれば、
複雑系において自己組織化が創発する。
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自己組織化した系は非平衡定常状態にある。
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その境界では、膜のようなエネルギーの交換が起きる。マルコフブランケット性
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こうして、内部と外部ができる。
内部と外部は実際には膜によってエントロピーに差異があるだけだ。
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人間のような自己閉鎖系にとって最小の内部性は自己だ。だが、そうした内部性をいろいろなものにかんじてしまう。
内部性というのも重要な概念だと思う。
多くの民主国家で二大政党性に収斂する、「敵と見方」というシュミット的分断よりも、「内部と外部」による自己組織的政治観として見たい。自己閉鎖系のループが閉じる所が内部。外部はモデルに過ぎないが、我々はそうしたクラスターにある種の内部性を見つけては名前をつける。
敵や見方•コミュニティ•膜。我々は自己閉鎖しているが、疑似的に内部性を作り出せる。ノードとしての協調的振る舞いは縁起の中にある演技であり、ハラリの言う〈虚構〉の共有が我々に内部性を作り出す。そうした内部性は再帰的に生じる。
君や私が〈オタク〉を見て「仲間だ」と思うのも、ある統計的流域に属したクラスターであると自覚的だからだ。
概念は結晶だ。〈内部性〉は統計的な位相空間や物理的なイメージから自己組織化へと続くものだ。
連帯に想像力が必要なのも、あなたが「人類に対する内部性」を獲得するためだ。
原始仏教における釈迦には、「万物に対して内部性を感じる」為に、〈空〉と〈輪廻転生〉が必要だったのかもしれない。 ここは今後議論:ヘーゲル主義(万物の内在化)、アルチュセール主義(万物はピースミールな内在化のみ可能だ)
アルチュセール主義でありつつ「カントの統制的理念(ある種のニヒリズムを自覚しながら目指していく)」
膜の確率場は、差異よりむしろ。
内部がどのような性質で自己算出、あるいは組織化しているか?という秩序によって定義されている。
外部と相互(≒構成的外部?)
これについて深く語っていこうと思う。
認識論とは?
ものをどのように見るかという人間の認識についてある種の普遍的な法則を見出す分野である
哲学や心理学とか、そういうものが関係してくる
マルコフブランケット、つまり内部性というのが認識論として有効ではないか まず、人間は言語を使うときに
シグナリングを通して意味の近似というのを図っていく。
その意味の近似は、別に境界を定めてその中の名前を付けているわけではない。
まず枠を決めて、その後に内部を決定しているわけではない
むしろ、内部の内部性というものを指摘して、ボトムアップに意味というものを形成しているように見える。
ある秩序にどうのこうの
これを言い換えるなら、
膜というのは、本体でなく
ある種の確立場の内部性として、
つまり内部が内部であるということによってのみ、立ち現れることになる。
すると、あたかも最終的に現れる外部との境界を我々が認識して、本体だと誤認している。
Miyabi.icon囲っているものではなく、囲われているものは立ち現れたオートポイエーシスである。
ただそこにあるという秩序
これが意味するのは何か?
膜という認識論は、FEPにおけるマルコフブランケットの正しい解釈ではないかもしれないということ。
すなわち、系は系の内部それ自体によって自己算出的に定義されているのであって、
系を差異によって定義するのは。人間の認知限界と紐づいていると考える。
Miyabi.icon自己言及性
多くの系それ自体の複雑性というのは、知覚できない。
例えば、川が流れている。水の中の相互作用というのは観察できない。
我々は川自身のことをほとんど全くわかってはいないが、
川と陸の差異を見て、〈境界〉を定義している。
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ここからここがオレンジ!!!っていってるけどほんとに??カラーコード全部違うよ(^ ^)
認識論としてのマルコフブランケット
定義域がどのようにして定まるのか
構成的外部