10月3日
シラー
しかしこの中間的状態とは果たしてなんだろうか。なぜなら自然=感性的な対象は「経験によって」、また道徳的=精神的対象は「理性によって、それぞれ直接に確実です」。ただ美にとってそれはなんだろうか。
質料と形式、受動と能動、感覚と思考とのあいだの深淵は無限であり、決してなにものによっても媒介できない(...)これこそ美に関する全問題が最終的にかかっている肝腎かなめの点であり、この問題の満足のいくような解決に成功すれば、美学の全迷路を通り抜ける導きの糸を同時に発見したことになるのです。
「知覚の現象学」の序文で、彼はこう述べている。
反省し始めると、私の反省は非反省的な経験に対してなされる。反省それ自身がひとつの出来事であることに気づく。反省は真に創造的な行為として、変化した意識構造として現れる。そして、主観が自己自身に与えられているのだから、主観に与えられている世界を反省の作用に優先するものとして、認識しないわけにはいかない・・・・・知覚は世界に関する科学ではなく、行為でもないし、熟慮して態度を決定することでもない。知覚はすべての行為が浮き上がる背景であり、行為の前提となるものである。世界は、構成法則を私に所有されるような対象ではない。私のあらゆる思催と明瞭な知覚の自然な場であり、領野なのだ。
ファシズム