フリーライダーを殺すのは倫理
さらに理解が進んだ
道徳と倫理
フリーライダーを殺すのは道徳、これはまずい
誰かがフリーライダーを決めて、何らかの罰則を与える、ということになるから
フリーライダーというレッテルが独り歩きする
メリットより弊害の大きいルール
フリーライダーを殺すのは倫理である
私が、私の権利の及ぶ範囲で、したいからする
殺すは言葉が強すぎるけどキャッチーで使いたくなる
正しくはこんな感じ
私が犠牲者の承認を与えないように気を付けるのは倫理
私が犠牲者の承認を受け取らないように気を付けるのは倫理
贈与されたらいずれ返すとか
霊
倫理の主語は自分
フリーライドの必要条件は犠牲者の承認
ゆえにフリーライドあるところ犠牲者の承認あり
犠牲者の承認は受益者を破壊する
スポイル
たかり屋
尊厳を買い叩く状況へ容易に変わるから
したがってその前に気付かせ、目を覚まさせるのが倫理
フリーライドという崖の淵から、そこに誘う死神を殺してヒトを連れ戻すのは倫理
ただし体験を共有していないと言葉は無力であり言葉にできないことは黙っておくべきだ
つまり余計なお世話は成功せずお互いを害するだけ
誰もが自分の目で見なければならない
フリーライダーを倫理的に殺せるのは自身だけ
悪しき自分を自ら殺すという倫理
悪しき自分を自ら殺す機会を与えるという倫理
/tsuzumik-private/意志というフィクション
たかり屋はもはや人間ではなく、自然災害
自由と責任はセット
しかし生き返る可能性がある
フリーライダーを殺す=人間として蘇生する
豊かさは選択肢の数
肩をすくめるアトラスを読む前のぼく
フリーライダーか否かは誤った二分法
誰しもある面で天球を支えている
別の面でフリーライドしている
したがって、一方的に自分が正しい側であり相手が間違った側であるとするのは危険
幻想の義理の連鎖
(読後)後にフォロワーの倫理として再整理
フリーライダーとフォロワーは別のもの
読み始めたときのぼく
予感
シグナル
認知が変わりそう
解像度が上がる
解像度が上がる前兆
今の考えを書いておきたくてこの記事を作る
読み終えそうなぼく
フリーライダーの下心、たかり屋精神を殺し、反生命の邪教から足を洗わせ、生命の道徳律に対し目を覚まさせるのは倫理
フリーライダーはコンヴィヴィアリティが低い
私は決して他人のために生きることはなく
どんな些細であっても施しをしてはいけない
まして美徳のように扱うのは論外
最悪の倫理である利他主義
読み終えたぼく
合理に対する妥協は悪
邪魔をするな