AIとプログラムと絵
「AIに仕事を奪われる可能性に対する反応がなぜプログラマと絵描きでこんなに違うのか?」
プログラムで自己表現をしている人はどれだけいるだろう
その中で、LLMを福音だと思わない人がどれだけ残るだろう
絵は感情や自己認識に深く結びついていると思う
感情には感情が生まれる
効率のいい勉強法や、速く走るためのフォームを真似されること
無意識の癖やしぐさ、生来的または生来的と自己認識していることを(時に誇張されて)真似されること
無意識の結びつきだから、理屈でどうこうできない気もする
理屈が通らないことを自覚している人ほど、表明の手段がなくて苦しんでそう
どうするのがいいのだろう
法律整えてルールだからにするのか
ここのリーダーシップが離れ業すぎるのがな。。
だからこそLLMや、集合知の力が必要だと思うのだけど
台湾あたりで成立して、Techがみんなそこに集まって、事後的にやっぱりこの部分は有用だったよねになるのでは
衛星写真とか、同意済みの絵(AI学習することが前提・規約織り込み済みのPixivみたいなPF)だけに絞るのか
これはこれで、隔離して置き去りにする感じで気分はよくないが
「自分らしい」というあいまいなラベルで絵を書くことと無意識に結びついていたアイデンティティの解像度を上げ、社会的に、技術的であり個性ではない部分と、触媒の個性足りうる部分とを分離し、新しい社会の新しい自己と出会うこと
という理想論
問題は破壊される側をどう扱えばよいか
幸せになる人の方が多いのだし、直接ではなく間接なのだし、権利を主張する方がおかしいよね?という発想は必要悪という感じがする、そろそろベターな案が発明されてもいいのではないか 感情は外部からマネジメントできないので、淡々と事実を指摘して、コミュニティの共通の目的に注意を引き戻す必要がある、という
その結果、コミュニティの本質に共感できない人は去っていく
コミュニティが正しくクラブになっていないのだよな
バザールで常に摩擦が起きる
いい摩擦ならいいのだが、紛争はよくない
前提が営利組織によりすぎている、戻る
これはむしろ、コンフォートゾーンに長くとどまり続けた結果、当たり判定が無尽蔵に広がってしまったのだととらえられないか コントロールできないものをコントロールしようとしている、幻想症候群 どちらも歪だ
そういう人を認めてゆっくりな変化にしましょう、は歪?
むしろもっと激しく豊かに変動していけばいい?
社会の任意のパラメータの変化のコントロールは個人の感情のコントロールよりもなお難しい
大前提として、社会が複雑で思い通りにならないことを受け入れた人と、受け入れてない人の間では、議論は成立しないのかもしれない
ソフトな勇気、それをどうしても受け入れたくない気持ちが、脆さの移転を逆転させて魂を破壊する それはそうだけどそうじゃない
社会が複雑で思い通りにならないことを受け入れた人で、かつAIにして欲しくないことがある人が、問題や意志を表明できる必要がある
一つ目の条件がまず貴重すぎて無理になってる感じがする
AIコーチの傾聴で、普通の人から普通に取り出してほしい
して欲しくないことの表明はどうすればいいんだろう
誹謗中傷をするな、は、するなというルールであるにもかかわらず、受益者が行動者でないにもかかわらず、社会通念上認められている
暴力をふるうな、もそう
ラジオ体操をしている人にこっそり近づいて、手や足が当たって、暴力だという人
ラジオ体操は暴力である
当たり判定がおかしい
この例は距離を置くのが物理的(=事実的)に容易であるため、おかしいとわかる
利益を得る人と、それをして欲しくない人が別、利益相反
いや、社会、なんだよな
家の中であれば自由にしたらいい
でも、社会なんだよな
ここでこねても無理ということがわかった
結局、社会的にアウトでなければ、私刑には法律で対処しつつ津波てんでんこするしかないのかな