「自分のWikipediaページがあったとしたらどんなふうに書くか」をイメージすると人生は成功する確度が上がるかも
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@0xtkgshn: 自分のWikipediaを書くってのはかなりいいかもしれない。色んな尊敬する人のページ見に行って経歴とか文脈性書いてるのはあるけど、その人たちとどんな活動で、流れでなら自分もハイパーリンクできるかどうかを考える。その上で、なりたい自分に向けたpathを考え書いて実際に回収していく。 クロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss、1908年11月28日 - 2009年10月30日)は、フランスの社会人類学者、民族学者。ベルギーのブリュッセルで生まれ、フランスのパリで育った。コレージュ・ド・フランスの社会人類学講座を1984年まで担当し、アメリカ先住民の神話研究を中心に研究を行った。アカデミー・フランセーズ会員。 構造主義の思想の中心を担った
いろんな哲学者の影響を与えている
最初の方に言及してるハイパーリンクっていうのは、ここでいう影響を与えた・与えられた人たちのことtkgshn.icon*2
主な経歴
生い立ちから学生時代まで 1908-1929
1908年に、両親が一時的に滞在していたベルギーのブリュッセルで生まれる。両親ともアルザス出身のユダヤ人の家系であり、また両親はイトコ同士であった。曽祖父はイザーク・シュトラウスという作曲家で、同時代に活躍したワルツ王ヨハン・シュトラウス2世と同姓であったことから生前パリで人気があったという。姓の一部「ストロース」は「シュトラウス」のフランス語風の読み方である。父親の職業は画家であり、その交友関係は芸術を通じてのものが多かった。そのため、幼少期から、芸術に親しみやすい環境で育った。 ヨーロッパ系の人間あるある、「家系がいいのが大事」だけど、もう個人的にはどうしようもないwtkgshn.icon*2 でも、父親の職業が画家で友好関係は芸術を通してのものが多いという文脈は参考になる
両親の友人らを通じて、比較的早くからマルクス主義に触れ、高校から大学時代にかけては、社会主義運動に参加し学生組織の書記長を務めた。また、ベルギー社会党の協同組合運動をフランスに紹介したほか、社会党代議士ジョルジュ・モネの秘書として法案作成に携わるなど、政治的な活動も行っていた。 ソルボンヌ大学を卒業し、法学の学士号を取得する傍ら、哲学を学び、アグレガシオン(哲学教授資格試験)に合格する。合格後の教育実習の同期生には、モーリス・メルロー=ポンティ、シモーヌ・ド・ボーヴォワールなどがいた。 ここで政治的な活動をすることが、最終的に彼の作品に紐づいてることがわかる
教授資格取得後、2つのリセ(フランスにおける中等教育機関、日本の高校相当)で、哲学教師を経験する。その時期には、資格取得試験のために中断していた政治活動を再開し、教師生活をしながら、ベルギー出身の社会主義理論家ヘンドリック・ド・マン(アンリ・ド・マン)のパリ講演を企画したり、赴任地の地方議会への立候補を企てるなどの活動を行った。また、哲学教師としての生活にあきたらず、パリ大学での指導教授の一人であった社会学者セレスタン・ブーグレから、新設のブラジル、サンパウロ大学の社会学教授としての赴任の打診を受けたことをきっかけに、当時興味をもち始めていた民族学のフィールドワークへの期待を抱いて、社会学の教授としてブラジルへと渡る
ブラジルでの教師生活 1930-1939
大学教授として、1932年の護憲革命(ポルトガル語版、英語版)後の新たな社会の担い手を自認する新興ブルジョワ層の学生相手に社会学を講じ、妻ディナとともにサンパウロ州の郊外を中心に民族学のフィールドワークに取り組んだ。
本人にとってもめちゃくちゃ貴重な経験だろうな。学生と対話する感覚。tkgshn.icon*3
2年間の大学教授生活の間は、主に大学の休暇を利用して現地調査を行い、長期休暇の際には、パラグアイとの国境地帯に居住していたカデュヴェオ族(英語版)や、ブラジル内陸のマトグロッソ地方に居住していたボロロ族(英語版)のもとでの調査を行った。これらの調査結果は、フランスへの一時帰国の際に、マルセル・モースらの後援のもとで、パリの人類博物館などで発表された。その後、大学からの任期延長の話を断り、1936年からほぼ一年間を、ブラジルの内陸部を横断する長期調査に費やす。この調査の途上で、ナムビクワラ族(英語版)やトゥピ=カワイブ族など、アマゾン川の支流に暮らすいくつかの民族と接触している。
ブラジルへと渡るまでの経緯や、ブラジルでの現地調査などのさまざまな体験、さらに後述の亡命を経て第二次大戦後フランスに帰国する頃までの体験のいくつかが、著書『悲しき熱帯』(1955年)のなかで印象的に回想されている。 ニューヨークにおける亡命生活 1940-1949
ブラジルでの長期横断調査の後、第二次世界大戦前夜にフランスに帰国して応召、西部戦線に従軍する。フランスの敗戦により兵役解除となり、いったん南仏に避難するも、ナチスによるユダヤ人迫害が迫るのを逃れて、マルセイユから船でアメリカ合衆国へ亡命する。同じ船上には、シュルレアリスト詩人のアンドレ・ブルトンもいた。
亡命先のニューヨークでは、ブルトンを初め、当時ニューヨークに集っていたシュルレアリストたちと親しく交際。彼らと連れ立って、アメリカ先住民の美術工芸品の収集を熱心に行っていた。社会人大学のニュースクール・フォー・ソーシャル・リサーチにて文化人類学を講じる。当時のニューヨークにはまたヨーロッパからのユダヤ系をはじめとする亡命知識人たちがおり、ニュースクールには彼らが教師として多数名を連ねていた。
この大学において同じく合衆国へと亡命してきていた言語学者・民俗学者のロマン・ヤコブソンと知り合う。二人はお互いの講義を聴講しあい、レヴィ=ストロースは彼から、彼自身が主導してきた構造言語学の方法論、とりわけ音韻論(音素およびその二項対立的な組成、さらにゼロ音素の概念など)の発想を学び、ブラジルでのフィールドワークにおいて漠然とした着想を得ていた、親族構造論の骨格として活用することを思いつく。 1945年の論文『言語学と人類学における構造分析』において、音韻論的な二項対立を活用して親族組織を分類するための基礎的な方法論がテストされた後、第二次大戦の終結後も合衆国にとどまり、およそ2年間の執筆期間をかけて、デュルケム学派の親族論の批判的継承やモースの贈与論の着想の活用をはじめ、従来の人類学・社会学の近親相姦および親族関係の主題を網羅したうえで、女性の交換を親族構造の根本的機能であることを提起した序論および第1部と理論部と、それに続いて、ニューヨーク公共図書館に通いつめての所蔵文献資料の検討の結果である、オーストラリアから北東・東南アジア・古代中国・インドの親族構造を題材にそうした交換様態の存在を例証した第2部・第3部からなる大著『親族の基本構造』を、博士論文として完成させた。 めちゃくちゃいい体験だ、というかNYPLってそんな研究者の仕事場としても使われるのか! tkgshn.iconの場合を考えてみる
assumptionとして全てのDAOについて述べているというより「AIを持つDAOは」という言明だと解釈します。Semantic Annotation (以下SA)を行うことを何らかの別の義務を免除することに使用できることをもって納税と表現することはできなくはないと思います。
@NaoYukawa: なんとなく、FLに足りないインセンティブ設計の部分をblockchainが補うんだろうなっていう話は、最近色々な人と話す中での共通認識として合ったけど、納税の概念面白かった そしてそれは悪いことだと思っていない、ユニークなことの1つ。 @0xtkgshn: 「高木俊輔は19歳の最後に拠点をNewYorkに移す。ここで〇〇と知り合い、彼は国連高校の先生だったので、彼の蔵書を読む機会があり高木の文藝・劇や、現代思想に関する知識はここで学ばれた。」「2022年ごろに活発だった公共財クリプト学派の落合将吾にも影響を受けているであろう」みたいな これをめちゃくちゃ続けるという概念
例えば、「missbitcoin_mai.iconのおかげで2023年の春にDaito Manabeと知り合い、そこから業界は離れていても交流は続く〜」とかは実際リアルだよな 「「Civichat」というGovTechサービスを運営していたおかげで、帰国時には毎回miyasaka.iconと会うような関係に。初めは情報交換だけだったけど、田坂さん.iconなども巻き込んで日本の政府意思決定にもクリプトの思想が採用されていった...」とか。