「気になること」を収集(把握)することが習慣になっていると、自分の心が向いているほうを掴む手助けになる
玄武.iconGTDの「気になること」を収集(把握)することが習慣になっていると、自分の心が向いているほうを掴む手助けになる(仮説) 「オレンジジュースを飲みたいのか?飲むべきなのか?」休職したときの話。
「自分の心が向いているほうはどっち?」「“べき論”じゃなくて、細胞が求めているか?」
べき論(次にとるべき行動に絡めての考察)については後で考える べき論の全てが悪いのではなく、自分の心が向いていること=気になることを土台にして、その上部構造としての次にとるべき行動ならば、話は少し違ってくるのではないかな。
それを無視したべき論ではいかがなものかと思いますが。
オレンジジュースが飲みたいから、飲むべき
rashita.icon個人的に、この表現には不自然さを感じます。こういうときは「飲みたいから、飲む」で十分で、「べき」という義務感は不要なのでは? つまり、べき論の射程ではないのでは?
「べき」という言葉は、本人の望み(欲望・直感)はどうあれ、こういう行動をすることが何かしら(主に外部的な要因)に要請されている、という状況で出てくると思います。
玄武.iconそうですね、私も若干の違和感を感じていました。
考えるに、自分の望み(欲望・直感)とやることが一致している時には「べき」が不要
飲みたいから、飲む
自分の望み(欲望・直感)とやることが一致していない時には「べき」が必要
飲みたくないけど、飲むべき
なので後述にある「どちらも同じべき論である」というのは誤りですね。
そして、自分の望み(欲望・直感)(いわゆる「心」と言い換えてもいいのかもしれませんが)は、非常に移ろいやすい。
移ろいやすいからこそ、なかなかできないタスクに取りかかれるチャンスの時もあれば、
「次にとるべき行動」が、「次にとる行動」といった「べき」が外れる時
簡単なタスクのはずなのになかなか取りかかれないピンチの時もある。
「次にとるべき行動」のままの時
以前に幾多ある「次にとる行動」の中から「次にとるべき行動」を選択するといったイメージでいると書いたことがありましたが、べき論で考えると逆なのかもしれません。
幾多ある「次にとるべき行動」から自分の望み(欲望・直感)とやることが一致している時には「べき」が外れ、「次にとる行動」を選択する
欲求(直感)を前提に先駆的に決定されている、という状況
さっきグレープフルーツジュースを飲んだから、(違うものにしたほうがいいという意味で)オレンジジュースを、“飲むべき”、
理性(論理)を前提に先駆的に決定されている、という状況
どちらも同じべき論(そしてどちらも「気になること」)であるが、何が前提かが違ってくる
オレンジジュースが飲みたい=気になること=欲求(直感)
さっきグレープフルーツジュースを飲んだから、(違うものにしたほうがいいという意味で)オレンジジュース=気になること=理性(論理)y
気になること(自分の欲求)が他の気になること(ここでは理性だが、他にも上司・両親・取引先などからのプレッシャーなど)にかき消される
気になること(自分の欲求)を「気にならなくする」ということに長けてくることも上記を手助けする
それは教育であったり、習慣であったりといった訓練を受けて、「成長」として捉えられがち
逆に他の気になること(ここでは理性だが、他にも上司・両親・取引先などからのプレッシャーなど)を「気にならなくする」方向性もある
(もちろん全く気にしないのはそれはそれでどうかという程度の問題は残るかもしれないが)
そうしたときに気になることを収集(把握)しても後者(外圧(プレッシャー))ばかりが集まってくる
なので、そうした外圧(プレッシャー)を強制的に取り除いてやる→休職、休むこと
そして、気になること(自分の欲求)を収集(把握)できるように「遊ぶこと」をする
なので、ここのページタイトルのように「気になること」を収集(把握)することが習慣になっていると、自分の心が向いているほうを掴む手助けになるというのは少し画一的なところがある。
上述のとおり自分の心が向いている方=上司・両親・取引先などからのプレッシャーなどという場合もある
自分の欲求に基づく気になることも、他者からの欲求に基づく気になることも、どちらか片方だけでなくそれぞれを収集(把握)することが肝要かと。
takahrt.icon そう。今更だけど収集するのは「気になること」であって、タスクを集めるのでは無かったのですよね
玄武.icon「気になること」を収集することが、直ちにやること地獄につながるとは限らないですね。