確率の出現
確率の出現
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科学史家・科学哲学者として高名な著者が、統計的推論(確率論)の考え方がどのように起こり広まったかを歴史的に説きおこした、学界への出世作(Ian Hacking, The Emergence of Probability, Cambridge University Press, 1975; 2nd ed., 2006)の待望の翻訳である。
該博で知られるイアン・ハッキングが、確率論史への新たな挑戦として問うた本書は、確率の歴史やその社会的影響に関する研究のブームへの火付け役となった。本書では確率の出現をパスカル等確率論史で知られた幾人かの天才達の功績とするのではなく、フーコーの考古学のスタイルを用い、1660年前後の10年間に、証拠などの関連概念の変化に伴って起こった歴史的必然として、医学などとの関わりの深いその前史から鮮やかに描き出す。 フーコーの考古学のスタイル
確率のもつ二元性、確率が出現して初めて可能となった帰納に対する懐疑、意思決定理論、リスクと確率など、現在まで続く論点の起源を示し、確率とは何か、という本質に迫っていく記述は、推理小説のようなスリルに満ちている。
目次
第一章 欠落していた考え
サイコロ賭博は最古の娯楽の一つであるが、ルネサンス期までランダムネスについての数学で知られているものはない。この事実について説得力のある説明は一つもない。 第二章 二元性
確率は、現代考えられているように一六六〇年頃に現れてきた。確率は本質的に二元論的であり、一方で信念の度合いと、もう一方で長期試行において安定した頻度を生み出す傾向をもつ道具と関係する。
第三章 臆見
ルネサンス期において、当時「蓋然性(プロバビリティー)」と呼ばれていたものは臆見の属性であり、論証によってしか得られない知識と対照をなすものであった。蓋然的(プロバブル)な臆見とは、証拠によって支持されるものではなく、ある権威によって、すなわち尊敬されている裁定者の証言によって是認されるものであった。 第四章 証拠
ルネサンス期の終わりまで、現在ある証拠の諸概念のうちの一つが欠けていた。その概念とは、それによってある事物が他の事物の状態を偶発的に(contingently)暗示できるものである。論証、真実らしさ、証言はすべて〔当時〕馴染みのある概念であったが、この事物の帰納的証拠というさらなる考えはそうではなかった。 第五章 しるし
天文学や力学のような高級科学が論証可能な知識を目標としていたのに対し、プロバビリティーは臆見を扱っていた錬金術や医学のような低級科学の産物である。低級科学の主要な概念はしるしに関するものであり、この章ではそれを少し詳しく述べている。しるしを観察することは、証言を読み取ることとみなされていた。しるしは、程度の差はあれ信頼できるものであった。したがって、一方でしるしは、あらゆるものの中で最善の証言によって与えられるという理由で臆見を(第三章の古い意味で)蓋然的(プロバブル)なものにした。他方で、しるしは真実を語った頻度によって評価することもできた。ルネサンス期の終わりに、しるしは第四章で述べる証拠の概念に変化した。〔そして〕この新しい種類の証拠が命題に確からしさ(プロバビリティー)を付与した。すなわち、命題を是認に値するものとしたのである。しかし、それができたのは、正確な予測を可能にした頻度のおかげである。このようなしるしから証拠への変化が、第二章の意味で二元論的な確率概念が出現したことの鍵なのである。 第六章 最初の計算
この章では、一六六〇年以前に独立におこなわれたチャンスに関するいくつかの計算を簡潔に述べている。
第七章 ロアネーズ・サークル……(一六五四年)
パスカルが解いたいくつかの問題によって確率は転がり始めた。この章から第一七章まで、ライプニッツを確率論の初期の証言者として起用した。 第八章 偉大な意思決定……(一六五八年?)
神を信仰しているように行為することを支持する〔パスカルの賭け〕は、意思決定理論への広く認められた最初の貢献である。
第九章 思考法……(一六六二年)
第一〇章 確率と法……(一六六五年)
まだ若くパリでの進展を知らないライプニッツは、自身が「確率」と呼ぶものについての大ざっぱな計算にしたがい、法における証明と権利の度合いを0から1の間の尺度で測定することを提案した。 第一一章 期待値……(一六五七年)
ホイヘンスは確率について最初の公刊された教科書を執筆した。そこでは、期待値を中心概念として用いている。この概念について彼がおこなった正当化は、いまだに関心を引くものである。 第一二章 政治算術……(一六六二年)
グラントはロンドン市の死亡表に基づいて詳細な統計的推測を初めておこない、ペティは中央統計局の必要性を主張した。 第一三章 年金……(一六七一年)
ヒュッデとデ・ウィットは、年金の公正な価格算出の基となる死亡曲線を推論するために、オランダの年金記録を用いた。 第一四章 等可能性……(一六七八年)
確率を「等可能な場合」の比として定義することは、ライプニッツに端を発する。この定義は現代の人々にはわかりにくいが、当時は自然なものであった。というのも〔当時〕可能性は、事象的(事物に関するもの)であるか、言表的(命題に関するもの)であるかのいずれかであったからである。確率も同様に、頻度的な意味において事物に関するものであるか、認識に関係する意味において命題に関するものであるかのいずれかであった。このように、確率の二元性は可能性の二元性によって保持されていたのである。 第一五章 帰納論理
第一六章 推測法……(一六九二年(?)、一七一三年出版)
確率の出現は、ジャック・ベルヌーイの著作で完結した。その著作では、確率の概念を自覚した分析と、初めての極限定理の証明がどちらも緒についた。 第一七章 初めての極限定理
この章では、ベルヌーイの定理についての可能な解釈を述べている。 第一八章 デザイン
一八世紀初期のイギリスでの確率についての考え方は、王位協会の会員が信奉していたニュートンの哲学に導かれており、その考え方によると、極限定理で証明された確率過程の安定性は神のデザインの証拠として解釈される。 第一九章 帰納……(一七三七年)
ヒュームの帰納についての懐疑の問題は、一六六〇年よりはるか以前には生じえなかった。というのも、その問題を提起する帰納的証拠という概念が〔それ以前には〕一切存在しなかったからである。なぜ一七三七年まで待たなければならなかったのだろうか。当時は依然として論証的な知識、すなわち第一原理から原因が証明されるような知識は可能だと信じられていたので、ヒュームの議論は止められることも常にありえたためである。臆見と知識の区別が程度問題になるのは必然的であった。それは、高級科学と低級科学が互いの中に崩れ込まなければならなかったことを意味する。これは一七世紀の間じゅう続いていた過程であった。すべての原因はしるしにすぎないと述べたバークリーによってそれは定式化された。〔それまでずっと〕原因は高級科学の特権であり、しるしは低級科学の道具であった。バークリーはそれらを固定し、それゆえヒュームは可能となったのである。 二〇〇六年版序論 確率的推論の考古学
一九七五年以後の確率と統計の歴史 / 考古学 / 現在の歴史 /確率〔出現〕前後の違い / 革命ではない / 断絶と連続性について /先駆けについて / 医術と法 / 省略の罪 / 帰納 / 近代的な意味での事実 /最後にもう一度、確率の二元性と帰納の問題
訳者あとがき
参考文献
索引