2023/11
top
https://gyazo.com/ee1ff0f9027d6cb1e319f28f82d707c5
ナラティブとエビデンス
990年代から医療の領域において,客観的に実証された根拠に基づいて医療を行う「実証に基づく医療(EBM:Evidence-based Medicine)」が主張され始め,エビデンスという概念の重要性が普及し臨床心理学領域でも注目されている。一方,エビデンスは患者の個別性に対応できるのか,患者との対話を軽視するリスクがあるのではないかと指摘され,EBMは決して万能ではないことが認知された(谷田,2007)。近年になって医療現場ではEBMの時代から「物語に基づく医療(NBM:Narrative-based Medicine)」の時代へ移行していると言われ始めた(原田,2004)。ナラティブとは物語のことであり,医療や心理臨床面接において患者やクライアントとの対話に焦点を当てることにつながる。この概念は脚光を浴び,必要性が高まってきた(大松・橘・梅田,2004;島内,2007)。本稿では,ナラティブとエビデンスの両概念を再考し,その新たなる関係性の構築について考察を行う
第1部 「流行」模倣と身体
衣服は「社会的肌」(Turner1980)であるともいわれるように、衣服の着こなしには当該社会の規則や慣習を理解し、TPOを考えることも重要である。したがって、ファッションは適切な歩き方や食事の仕方と同じく、ひとつの社会やコミュニティに特有の型(ハビトゥス)をもつ身体技法(マルセル・モース 一九七三[一九五◯])としても考えることができる。 マルセル・モース(一九七三[一九五◯])『社会学と人類学』(Ⅰ・Ⅱ)有路亨・山口俊夫訳、弘文堂
ハビトゥス (ラテン語: habitus) は、人々の日常経験において蓄積されていくが、個人にそれと自覚されない知覚・思考・行為を生み出す性向。ピエール・ブルデューによって用いられた
これはなんかね、高校野球というよりも大きな、もうちょっと大きな話になっちゃうね。でも自分たちで厳しくするしかないんですよ。ある時代まではね、遊んでいても勝手に監督・コーチが厳しいから全然できないやつがあるところまでは上がってこられた。やんなきゃしょうがなくなるからね。でも、今は全然できない子は上げてもらえないから。上がってこられなくなっちゃう。それ自分でやらなきゃ。なかなかこれは大変
時間が矢のように一直線に進むのではなく、ときに滞留したり止まったり糸のように細くなったり巨大な濁流になったりしながらグルグルと循環しているのだ、という感覚
だからこそ、境界ははっきりと引くべきである。それを越えるにせよ越えないにせよ(謎) メモ
ポップミュージックが過去から直線的に進化?してきたことに対して、ヒップホップは過去の楽曲のビートを切り刻んで音そのものを楽曲から切り離すだけじゃなくて、その歴史での文脈も切り離して今に位置づけることだったり、今現在の音楽と過去の音楽が同列に並んで置かれていることだったり。そういう意味での「無時間性」。
遠野物語に見られるなんともいえない感じ、この世とあの世とか、現在と過去とか、現世と異界が、なんというか無秩序に螺旋状に繋がっている感じとかそういう直線的な流れではないこと(進歩とか進化とかそういう意味での直線)。
カルヴィーノは「速さ」について、現在地から目的地は一直線に最短距離をいく速さと、支離滅裂にあっちこっちへ猛スピードで動きづづける速さの二つについて言っていて、そんなふうに最初の1ページから光の速さで読み飛ばすことと、ずる賢く巻末からあっちへフラフラこっちへフラフラ何回も行ったり来たり読み彷徨うことの二つを考えた。
「行進」という言葉を使っている。ティム・インゴルドは『ラインズ』で「行進」を「逍遥する歩行」と比較してこう書いている。
メトロノーム並の正確さで足音を響かせながら視線を右に向けるパレード中の兵士にとって、行進は輸送である。行進を逍遥する歩行と比較して、歴史地理学者のケネス・オルウィグは、行進とは「開かれた」場所なき空間――すなわちユートピアを前提としている、と主張する。行進はその後に残す場所を完全に破壊する。それに対して、逍遥する歩行は、場所に立つ(トピアン)。それは「太鼓の確固たる拍子に合わせて私たちを一直線に行進させるものではなく、螺旋状の和声進行のように、私たちに糧を与えてくれる場所に私たちを連れ戻したり、そうした場所を蘇らせたりする」。徒歩による輸送のひとつとして、行進は、場所から場所へと巡るのではなく、ひとつの行程から次の行程へとへと進んでゆく進行(プログレス)という意味を示している
月への行進でアメリカは月の上に星条旗を立てた。
地球上の極地という極地にはあらゆる国の旗が立てられていた。最後に残ったフロンティアが月だった。この当時、冒険というものは個人の手から遥か遠くに離れて国家の威信とイデオロギーを掛けて争われる別の形の戦争となっていた。これは大航海時代から延々と連なる最後の到達点だった。あの日以来、人類はまだだれも月に立っていない。
最後の章に啓蒙思想の話が出てくる。啓蒙思想は "Enlightenment" と呼ばれる。「光」を意味する。光は直線的に進む。進歩は同様に直線的に進むと考えられている。それはゴールが存在すること、進むべき正しい方向があること、そして自分はそれを進むのだ、という強い意志を意味する。ティム・インゴルドは近代(モダン)をその直線と捉えた。そして前近代をグルグルと自由に行き来する線として捉えた。それは神話や民話があちこちにウロウロする流れだったり徒歩旅行の曲がりくねった流れのことだ。オデュッセウスがトロイ戦争が終わっているのに何年も何年も故郷に帰れない様子がそれだったりする。それから現代(ポストモダン)は直線がバラバラこなごなにされて断片になっていると捉えた。それはまさに今、あらゆるものが分断されているように見えるそれを意味する。 前近代、近代、現代のそれぞれに、場所(topian)、場所不在(utopian)、場所不全(dystopian)という語を当てた。前近代は地べたをウロウロと這いつくばり蠢くラインを地表に残す。それは生のラインでその痕跡こそが自分たちの場所だ(ティム・インゴルドはそれを「居住する」と言った)。近代的な直線は進歩的な前進でどんどんどこかに向かって進んでいく。そこには留まるべき一定の場所がない。そして現代的な断片は描かれた直線がバラバラこなごなに分断されて、すでに占めるべき場所さえ持たない。
しかし、最後にティム・インゴルドは、このバラバラの断片には直線的に閉じられた通路を打ち破って新たに切り抜けるべき通路を開くチャンスがある、と希望を示している。断片をつなぎ合わせることは新しい場所を作るチャンスであると。
こうなるとやたらと直線が気になり始める。
山梨は盆地で山が迫っていて、ここは空が狭いなんてよく揶揄される。視界の中にはいつでも山のフォルムがあって、地面と空の境目は上ったり下ったりする曲がりくねったラインだ。そんな風景のなかで、道路や橋や家や電柱や人が作ったモノは全て直線から成り立っている。
進歩が直線的に進むのは、過去から未来へ流れる時間の流れに依るとするならば、これらのモノが描く直線は、空から地へ鉛直方向に貫く重力のベクトルに依るのかな、なんて考えたりした。
点と点をつなぐということは、点と点を別のものとして分けるということでもあって、境界を引くことでもある
へりくつではある
点と点を繋ぐ、繋げることに価値が生まれる
ここで発見した「同調化」「差異化」という言葉*5と、「ゲオルク・ジンメル」の名前を検索するといくつか論文が見つかった。勘で2本選んだ。一つは「流行」について*6。もう一つは「消費」について*7。
目次を眺めて、勘で、第2部『取っ手』『橋と扉』『額縁』を拾い読む。こういうときには、ひとまず足場をつくるのだ。ジンメルの二元論がなにを意味しているか。どうもこれは「境界」の話でもあるみたい。あらゆるものが繋がっていくような気がする。 イスラム教徒のヒジャブは宗教的な装身具であり、ファッション・アイテムではありません。とはいえ、女性が身につけるものであり、服装でもあるという意味で、ファッションと無関係とも言えません。
部外者であるわたしたちがするべきことは「ムスリム女性にヴェールを外させる」ことではなく、彼女たちの自由意志を尊重し、その行為を理解することだと思う。彼女たちを抑圧された力なき哀れな者、人権を犯された人間と見るのは、本当に失礼なことだと感じている。そうすることによって、こちら側こそが、人権侵害をしていることに気づかねばならない。
https://gyazo.com/ad843f1ae00ad3a4185465813383ec60
進化の歴史
ー時間と空間が織りなす生き物のタペストリー
第1話
「自然の階段」から「生命の樹」へ
文と写真 長谷川政美
https://gyazo.com/23183e2ce8ac74582ac7e209c06cd3df
当たり前のことを当たり前に実践できていてそれがすごいという感じ。達人の正拳突きが必殺技になる的なやつ。
Tumblr Is Always Dying
end