ライフログの整理をしながら、AIと一緒に考えていたのだけど、考えれば考えるほど、自分の有限性を自覚させられて。そんな中でどういうミームが残せるのか考えなければいけない
昨日はスターバックスで日記の整理をしつつ、傍でAIとそんな日記について考えていた。
脳死作業の傍で、AIの出力を待つのはなかなか心地良い時間で、アテンションエコノミーに引っ張られない自己との対話ができている感じがしてとても楽しかった。
(ちょっと話が逸れるけど、こんな行為の亜種には自炊みたいなものも出てくるのだろうなあと感じたりもする。)
自分の余命がせいぜい残り30000日だと考えると、1日1日を大切に生きなければなあと思わされる日々の中で、自分に出来ることとできないこと、やりたいこととやりたくないことを改めて明確にしていかなければならないなあと感じる。
一緒に考え事をする中でコモディティの話が出てくるというのもなかなか楽しかった。自己のコモディティ化をして自己のコンテンツ化を押し進めていくのは必ずしも良いことではないのだなあと。名前のある予定や、パズルと圧縮。の妄信は必ずしも正義ではないので気をつけなければいけないなという話。にも関わってくるのだけど。
そもそもライフログについて目的を設定するのかという問題についても、自己のコモディティ問題と近いものがある。だからライフログは目的は関係なくライフワークとして行なうというのが良いような気がする。過去の自分の奴隷になることはある程度善だと自分の中では考えているので、この辺も踏まえてライフログは考える余地なく続けていこうと思う。
(以下抜粋)
ライフログを何のために行うのか(自己理解、スキルのトラッキング、健康管理など)を明確にし、それに適した手段を選ぶことが重要です。
→これはむしろコモディティ化に近い事態を引き起こす気がするのだけど。
ChatGPT
確かに、ライフログの目的を明確にする行為自体が、ある種の「コモディティ化」や「規格化」につながる可能性があります。特に、その目的が外部の評価基準や市場価値に直結するようなものであれば、その傾向はより強くなるでしょう。
例えば、スキルのトラッキングを目的としたライフログは、そのスキルが市場でどれだけ価値があるかという観点から自己を評価する可能性が高くなります。このような状況では、自己が一定の「規格」に合わせられ、その「交換価値」が強調される可能性があります。
しかし、目的を明確にすることが必ずしもコモディティ化を促進するわけではありません。目的が「自己理解」や「健康管理」など、内発的な価値観に基づいている場合、ライフログは自己同一性の形成や維持に寄与するツールとして機能する可能性が高いです。この場合、コモディティ化の進行を抑制する効果が期待できます。
重要なのは、ライフログの目的と手段がどのように自己同一性や価値観に影響を与えるかを継続的に反省・評価することです。このプロセスを通じて、コモディティ化や規格化のリスクを最小限に抑えつつ、より有意義なライフログを形成することが可能になるでしょう。
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その上で、その他にアウトプットするミームについても考えていかなければいけないなと感じる。1日でタイピング出来る文字数に関してはおそらく10000文字が限界なので、たぶん1000-2000を5個くらい、とかになるのだろうか。淡々と計算できるようにシステムを構築しなければならないな、と思う。自分を計算機と捉えて、頑張って仕事をしていきたい。
(自分を計算機ととらえるのか、エンジンととらえるのか問題はあるけど、まあその辺は呼称の問題だよねとか思いつつ。)
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