名前のある予定や、パズルと圧縮。の妄信は必ずしも正義ではないので気をつけなければいけないなという話。
昨日は自分の中ではけっこう良い日だった。最近定めたlifeworkに関して、数値こそ達成できていないものの、どの項目も順調にこなせてきているからだ。だが、そうしてみるとどうだろう?今度はなんだか名前のある予定が減り始めたのだ。それが良いのか悪いのかについて考えたりしている。以下引用。 ーーー
今日はGoogleカレンダーで見るとあまり活動しているように見えない、と言うことだ。これを僕は名前のある予定と呼んでいるのだけれど、意識高い系の人って、名前のない予定を悪だと思いがちなバイアスがあるように思う。パズラーである僕としてもその感情は拭いきれないところもあるのだけれど、この辺の思想は修正していかなければならないと思う。一見何も生産性がないように見えても、言語化できないところで自分に何かしらの価値はあるものだ。それを悪としてしまうのは、あまりに早計なのではないだろうか?
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どうしても資本主義みたいな経済合理性の世界で生きていたりだとか、常にアテンションエコノミーの中に組み込まれたりしていくと、名前のない予定には価値がないのではないかと思えてくる。価値に関しては価値と意味のマトリクスでも考えられるように、自分自身が価値を感じられていればそれで良いはずだ。いや、そもそもそうですらなくても良いのかもしれない。ともかく、何かの基準の上に成り立つような言語化されたものが必ずしも正義ではないのだ、ということを意識する必要があるのかもしれない。特にアテンションエコノミー(この場合のアテンションエコノミーはネット上だけでなく、Googleカレンダーを人に見せる時、のような身近な自己承認欲求だったり、会社に対して自分をアピールするような場面も広義として含む)に日々晒されている現代社会においては、どうしても自己のコンテンツ化をしてしまう傾向があるように思う。それのよくないところは多分プラットフォームを運営する人間たち(プラットフォーマー)の養分になってしまうところにあって、この辺の話は僕が書きかけたスマホと知的生活だったり、全体主義の克服みたいなところに書いてある。あるいはスマホ脳か。 いずれにせよ名前のない予定を悪として、パズルと圧縮だけを進めていくような動きはよくないなあと思う今日この頃。