自分の余命がせいぜい残り30000日だと考えると、1日1日を大切に生きなければなあと思わされる
職場の上司が生誕10000日を迎えたという話を聞いた。
普段そんなことを考えないなあと思いつつ、なるほど27歳くらいで10000日に達するのかというのがけっこう新鮮な知識だったのでこうしてメモ的に残している。僕らの人生が仮に100年だとしても、もう4分の1過ぎているのだということ、そして残りの時間を日数にするともう30000日も残っていないこと。そんなことを考えるとなんとも言えない気持ちになる。 もう少しスケールを広げてみると、落合陽一さんが言っていた「1000年が40世代」と考えると短いなと思う。みたいな話もある。改めて人のちっぽけさを感じると共に、40世代では人間大して進化しないのだろうなあ(生物学的には)とかいうことにも妄想を広げたりしつつ、 まあそんなこともあってか、最近はよく100、1000、10000といった区切りの数字について考えるようになった。先ほども書いたように人間の寿命が数万単位であることを考えると、その中で成せる数字というのも現実的なのは10000くらいだからだ。自分のちっぽけな人生の中で、100できることは何か、1000できることは何か、10000できることは何なのか?そんな風に考える時期に来ているなあと感じている。
これらの数だが考えるための補助線としては次のものが目安となり得る。 ・100→1年
・1000→週(もしくは月)
・10000→日
僕は知的生活(知的生産)の思想の影響を大いに受けている人間なので、ここで言う「できること」というのは主に『能動的に収集・積載すること』みたいな文脈で考えて欲しい。 そのように考えると、100できそうなことはなんだろうか?たぶんこれは『メディア(道具)』であるように思う。楽器などを想像してもらえれば分かるが、習熟にそれなりの時間を要するので、多分100位が限界なのだろうなとなんとなく推測される。 1000できそうなことはなんだろうか?正直これがイマイチピンとこない。トラッキングすることとしては健康・美容関係というのが思いつくものの、能動的なものはさっと出てはこない。場所とかはけっこう良さそうではあるな。書評エッセイなんかもここらに属するのかもしれない。
10000できそうなことはなんだろうか?元々「毎日できないことはできない」と思っている人間なので、これは常日頃から考えているところ。日記だったり、物書きだったり、写真だったり、まあそう言った自分が作る作品関連だ。ここで言う作品は原液を薄める類のものではなくて、原液を作る的なものを指す。 こんな風に考えてみると思わされるのが「人のために使っている時間ってないのだな」ということ。もちろん利他的行為は大切なのだけど、それはしっかり自分の時間を確保した上でやっていきましょうと思うところ。まあそんな感じに考えてしまうのはもしかしたら、おそらく近代以降に発生した自己実現の呪いみたいなものにかかっているからなのかもしれないが。これを近代病とでも名付けておくか。近代における自我の獲得はかなりの功罪が残されている。 そして話は展開して、最近の僕の関心事デジタルヒューマンの話とも紐づいてくる。LLMの発達が十分に進んだ時、情報それ自体が自律的に生態を成すににはどれくらいの量を必要とするのだろうか、という話。 そしてこれは「ミームが原型を保っている状態で」という条件がつく。自分が抽出した原液的なものが大なり小なり薄まれど、しっかりと形を保っている状態。思想の基盤だったり、軸となる部分がブレずに作動する状態だ。この辺は恒常性(ホメオスタシス)の文脈も関係してくるかもしれない。 さて情報量だが、これもざっくり100、1000、10000の議論机に載せられる気がしている。100のまとまった情報、1000の素材、10000の枝葉的な素材。この辺の言語化はまだまだ整理がついていなくてアレだが、ざっくりこの3つが揃っていれば生態を成してくれる気がしている。具体例としてはSNS運用とかがイメージしやすくて、大体これくらいのデータセットが揃えば、自動であれ人力であれ、既存の情報を加工することで半永久的に情報が回せる感覚がある(これすらもやったことがない人にはイメージしづらいのかもしれないが)。 と仮定するならば、この情報をどれくらいの速度で集めるかということだったり、優先順位をどうつけるかということだったり、あるいはどう同時並行で進めていくのか?みたいなことが大切になっていくる気がしている。そしてこれらを具体的に言語化及び行動化していかなければいけない時期にいるなあと感じているのは、冒頭の話とも被る。
そして冒頭からの自己実現的な話と、その後デジタルヒューマン的な議論の位置関係だが、現状では「デジタルヒューマンを作れるデータセットを揃える」までを一つの到達点とするのが良いのではないかと考えている。これはサチるor悟る問題にも関連してくるのだけれど。 人生は効率ではないとか綺麗事を言ったところで、結局のところ自分だって人生を棒に振るのは嫌だ。だからなるべく人生を賭けてサチってしまうのは避けたくて。この辺の境界ラインが「デジタルヒューマンを作れるくらい」なのではないかと思う。あらかじめ到達点としてそれを設定しておくことで、それへの理解を深めていく。正直この登山的行動指針は自分の適正に合っていないと考えているのだけど、社会の中で生きていく以上、この辺は避けて通れないのかなと思う(自分はモノクロの絵で満足してしまうタチなので、隙間を埋めていくのにはあまり興味が湧かない)。 とか言いながら結局やらない頭でっかちになってしまいがちなのだ自分の悪いところなのだが。効率だとか最適だとかタイパみたいな話はあまり好きではないのだけれど、しっかりと考えて設計して、パズルと圧縮も駆使しながら日々を生きたい(この後しっかり考えよう)。