パソコンで文字を打ちながらメディアと自分自身の環世界の限界性について考えている
久しぶりにパソコンで文字を打っている。
最近は主にスマホだったりとか、LLMを使っていたりだとか、日記に関しては音声入力を使ったりしているので、仕事ではなく自分の文章をパソコンで打つというのが結構久しぶりな気がしている。
書いてみようと思ったきっかけは2つくらいあって、一つは長めの移動時間を確保できたこと、もう一つは落合陽一さんの文章で確かになあと思ったので自分自身も考えた軌跡として残しておきたいなあと思ったこと。 上記の記事の中で落合さんは次のようなことを言っている。
さて,我々はLLM書きをする時代になってきたのだ.この最大の問題点は,自分のLLM性能が手書きで下がることであると思う.口述筆記能力に違いは感じない.問題は手書きの能力が下がって感じることだ.
今自分はM2MacBookAirの13インチくらいのものを使い、macOS上でGoogle Chromeを開き、画面を2分割している。左側には参照資料を置き、右側にはscrapboxというソフトを配置して執筆を行なっている。
https://scrapbox.io/files/6552f02a255d4a001be4984c.png
パソコンの1アプリケーションの話から概念を少しを広めていくと、先のタイピングの話になってくる。この辺の話は先の記事と被るのでスキップ。
大幅に概念を広めてみて、言語というのも立派なメディアの一つだ。自分はかなりこの概念に規定されている割合が多いなという自覚はあるのだけれど。そうなった時に、じゃあどうするのかってことでさいきん軽音サークルを始めたりもしたのかもしれない。なんかこれは後付け感があるけれど。まあともかく、僕たちは多数のメディアによって思考や言動が規定されている。そう考えると都市なんかもある種のメディアと捉えても良いのかもしれない。 ここでラプラスの悪魔やディストピア的アナロジーの悲観や虚無にいくのもよいのだけど、それだとちょっとつまらないからどうしようか、とか思う。 先に書いたようにどうしてもメディアに規定されている以上、自分という存在は言うまでもなく有限なのだけど、その構成をカスタマイズしてくのは楽しそうだな、思う。そんな風に考えてみると野崎まどのタイタン(野崎まど)はとても希望が持てる結論を提示してくれたな、と改めて思うのだ。『仕事は影響を与えること(インフルエンス)』であるというのはとてもシンプルでありながら本質をついているように思える。