知的生産は個人的なものである
>知的生産は、どこまでも個人においておこなわれるものである。 知的生産の技術 解釈は色々あるだろうが、sta.iconは以下のように解釈している
知的生産は本質的に高度な創造なので、一人で集中しなければならないということ
最初から複数人であーだこーだしても何も生まれない
一人が知的生産したたたき台を、皆であーだこーだ叩くのが現実的
この前者の「たたき台をつくる部分」は個人で行うべき、つまりは個人的なものであるという話
人の数だけ知的生産の様式(やり方)があるということ
個性的な個人の精神の、奥ぶかい秘密の聖域でいとなまれる作業であって、他人にみせるべきものではない。しかし……精神の奥の院でおこなわれている儀式は、あんがいおなじようなものがおおい……それなら、おもいきって、そういう話題を公開の場にひっぱりだして、おたがいに情報を交換するようにすれば、進歩もいちじるしいであろう
考察するとsta.icon
当時(初版は1969年)は各自のやり方を共有するという手段も発想もなかった
どころか他者に見せるべきではないという奥深しささえ感じられた
これを「聖域性」と表現している
しかし、行動範囲や交友関係の広かった(?)梅棹はそれらやり方が似ていると知っていた
どころか「技術として発展させられる」とも
共有した方がてっとり早くね?
ああ、たぶん俺の体感はこれだsta.icon
知的生産とは「特化されたもの」を扱うものである
というより、特化されたものを扱うことから逃げられない
で、特化されたものは本質的に煩雑で、自分にしかわからない
集中しなきゃ捉えられねえ。個人的なものだから自分が捉えるしかねえ。ということsta.icon*2
他の解釈
日本社会が「皆のやり方」に合わせがちである、という風潮に対するアンチテーゼとして示されてるようにも思える。
知的生産活動そのものを「自分なり」にやっていくことの肯定であろう
聖域(各個人のやり方)を公開した方が捗るが、だからといってそれは聖域に他者を招き入れることを意味しないsta.icon