知的生産の定義(吉良野すた)
知的生産とは新しい概念のたたき台を一人でつくること この定義が言っていること
観念ではなく概念である
観念とは自分一人にしかわからないこと
概念とは他者も理解できる観念
つまり独りよがりではなく他者が理解できるようになっている必要がある
たたき台であること
0 to 1は、個人の深い内省と集中を要するが、成果は荒削りで良い
1 to Nは、行動(手を動かす)と協調(1人よりn人の方が強い)と検証(実際に試してみてわかることがある)が物を言う
知的生産は個人的かつ創造的な活動であり、0 to 1に属するものである
0から1をつくることも重要であるため、知的生産に1 to Nを絡ませるべきではない(0 to 1に専念するべきである)、どころか絡ませてはいけない
Q&A
あだ名をつける、など小さな活動も知的生産か?
Yes
他人でも理解はできるが、全く役に立たないであろうことも知的生産か?
Yes
知的生産そのものは、生み出したものの価値には言及しない
大した価値を生み出さない知的生産、なるものがあっても良い
たとえば趣味としての知的生産
1 to Nを個人で0 to 1的に行うことは知的生産か?
Yes
たたき台に甘んじるのは甘くないだろうか?可能な限り、Nを大きくするべきではないのか?
そうとは思わない
0 to 1と1 to Nは、系統が違う
0 to 1と1 to Nの両方をやるには、人生はあまりに短い
ゆえに、各自向いている方に専念した方が良い
Nを大きくするのは、1 to Nの人に任せればよい
一人である必要性はあるのか?「0 to 1は、個人の深い内省と集中を要する」は本当か?
Yes
ただし能力差によっては、同じXでも、深い内省と集中をしなければ生み出せなかったり、そうせずに生み出せたりする
この定義は、どちらかと言えば各自の主観にフォーカスしている
Aさんが何かを知的生産する(Aさんの世界で知的生産をする)ためには、Aさんが一人になるしかない
ただし、Aさんが知的生産したXは、誰もが一人にならなければつくれないものかというと、No
たとえばBさんがXを難なくつくってしまうかもしれない
発明と知的生産の違いは何か?
知的生産は必要と懐疑以外からでも始まる
たとえば「この手段を掘り下げてみたら面白いのではないか?」「この観点が抜けているが、考えてみたら何か見つかるのではないか?」といった好奇心
たとえば「私はAが好きなので、Aでいけるところまでいってみよう」というこだわり
たとえば「私はAが嫌いなので、意地でもAには頼らずに打開してやる」という意地 etc
哲学と知的生産の違いは何か?
知的生産は以下のニュアンスが強い
ナレッジワーカーという言葉が適切かはまだ自信ない。。。sta.icon
「仕事をする者」の方が適切かもしれない?
実用的または実践的な概念である(たとえばツールをつくりやすい)
こんなイメージかもしれない
https://gyazo.com/b73daf92dcfc1242cc71fcd5fc090d54
※実用でないものの発明、は議論を単純にするため見なかったことにします……(発明=実用的なものの発明)