力と交換様式
交換様式
D:Aの高次元での回復
経済的ベースを生産様式(生産力と生産関係)に見出すマルクス主義の見方ではうまく説明ができないことが多かったため。
マルクス:資本論で無意識をもちこんだ。ダイモン(精霊)をもちこんだ。それがフェティシエ(物神)である
マルクス:資本主義的生産が労働者を搾取するだけでなく、いわゆる自然を搾取すること、つまり人間と自然の間の交通を破壊してしまう。アニミズム的な概念の古代では自然に祈願していたり、人間と自然の間における交通が無意識化ではあった マルクスは資本論で、商品の価値を物神、すなわち霊的な力として見出した。 ”机はやはり木材、ありふれた感覚的なものである。ところがこれが商品として登場するとたちまち、感覚的でありながら超感覚的な物に転化してしまう。それは自分の脚で立つばかりでなく、他のあらゆる商品に対しては頭でも立っていて、ひとりで踊りだすときよりもはるかに奇怪な妄想を、その木頭からくりひろげる。したがって商品の神秘性は、その使用価値に由来するものではない。価値規定の内容から生じるものではない”
上記がどこからくるのかというと交換からくるとマルクスは言う。”商品交換は、共同体の終わるところに、すなわち、共同体が他の共同体または他の共同体の成員と接触する点にはじまる”
商品交換が内部でなく、外部の接触においてはじまる。ここが力を生む
物象化とは、人間と人間の関係が物と物の関係のように扱われることを意味する。物神がアンダーバリューされてきた
アダムスミスの道徳感情論:人間のエゴイスムは人間の本性。”いかに利己的であるように見えようと、人間本性のなかには、他人の運命に関心をもち、他人の幸福をかけがえのないようにするいくつかの推進力(プリンシプル)が含まれている”つまりエゴを超えるものにシンパシーを見出した 貨幣の力は交換様式Cから生じる観念的な力。マルクスはそれを物神とよんだ。重金主義者や、重商主義者は物神の力に従って貨幣を蓄積することを追求した。しかし古典派経済学に欠けていたのは、交換と交換がもたらす力への認識だった
人々の生活は定住化とともに交換がはじまった
猿人類の段階ではグルーミング(毛繕い)が社交だった、人類においては集団における笑い、歌、踊り、言語が生まれた。集団の拡大による危機は祭式や宗教によって克服される
デュルケームは交換に社会を見出したが、モースは交換に霊の動きをみ出した マルクス:資本主義経済において、人々は主体ではなく、交換がもたらした関係に従属する存在である
結果として生じたことを、原因に見出す誤謬を遠近法的倒錯。貨幣の起源や国家の起源を問うときにはそのことに注意しないといけない
国家は支配階級と被支配階級の交換、被支配階級の自発的服従によって生じている
Aの互酬制が水平的ならBは垂直的な互酬制
戦争は交換の失敗によるものではなく、交換に先行するもの。贈与はむしろ戦争のための同盟を作るためにある。部族間の絶え間ない戦争こそが国家には転化しない原因
国家の成立にとって必要なのは、奴隷ではなく、いわば”自発的に服従する奴隷”つまり臣民(subject)である
ベネディクト・アンダーソンは、ネーションはエスニック(民族)とは違って、近代国家の下で形成された「想像の共同体」である。 民族が国家をつくったのではなく、国家が民族を創ったというべき
贈与は必然と信用という観念たを伴うようになる
国家が保証しなければ貨幣としては機能しない。
マルクス:貨幣物神から資本物神への転化。貨幣は物と交換できる力をもつ、そのことが貨幣を蓄積しようとする絶対的な至富衝動をもたらす。
宗教はBの交換様式(垂直)呪術はAの交換様式
交換様式DとはBとCによって封じ込められたAの高次元での回復にほかならない
DはCが支配的となる資本主義のあとで出現するような社会の原理
BとCが発展を遂げた後、その下で無力化したAが”高次元”で回復したもの。しかしこれは古代において出現していた。
共同体や国家の間での交換を担った遊牧民・漁民。遊牧民は”原遊動性”の記憶を保持している
ゾロアスターがもたらしたのは、世界とその歴史を善と悪という倫理からみる見方。身分に関係なく自由な選択によって決まる。世界的な倫理的な選択と直結し、実践の問題と相即する。人は自由だから選択するというのではなく、選択においてのみ「自由」がもたらされる。権力者であっても、不正な行いをすれば地獄へ行き、究極的には消滅する
イエスは王・国家を斥けた。交換様式でいえばBを斥けた。イエスは家族・共同体を斥けた。つまりAを斥けた。イエスが唱えた最も重要な掟は、隣人愛:隣人を自分のように愛しなさい。 隣人とは社会的初関係を超えて見いた出されるような他者のこと。彼が示唆するのは交換様式ABCを超えて人と交わること、それがDの到来であり神の国の到来である。 孔子のいう仁とは差別的である。家族や長たるものを大切にする偏愛でしかない。墨子のいう兼愛は恵まれないものへの愛を説くもの
古代において各地で起こった普遍宗教的運動は次の点で共通している。交換様式B・Cに対抗してAを高次元で回復するDの強迫的な到来である
一般的に生産力の未発達の社会を子供とみなす比喩にもとづいて考えると、古代社会は一般に子供だと言える。ギリシアは正常な子供であった、古代アジアの専制国家などはしつけの悪い子供、ませた子供である。なぜギリシア芸術が今ももつ魅力や模範生は、それが正常な子供であったことならず二度と帰ってこないからだとマルクスは言う
アウグスティヌスは神の国を現実の国家とは別の次元にある天国としてのみ考えた。神の意思は突然の終末によって示されるのではなく、歴史的な過程を通して示されると考えていた
マルクス:ゲルマンの共同体が交換様式Aに根ざす双務的な連合体であり、Bの優位の下で統合されたアジア的共同体とは異なる。ゲルマンを高段階の未開人とよんだ。
双務的な主従関係>封建制。交換様式でいうと封建制では支配ー服従の交換様式Bでありながら、交換様式Aにあった互酬性(双務性)が色濃くのこっている
ゲルマン社会は氏族社会にあった交換様式Aがのこり、集権的な国家の成立(Bの優位)を妨げた。ゲルマン社会では都市を中心としてCが発展した。農業共同体を解体したのも国家ではなく、市場経済であった
マルクス:ゲルマンの集合体が統合(フェライン)ではなく、連合体(アソシエーション)であり、統一体としてではなく協定(アイニグング)として現れる ヴェーバーは資本主義の精神の形成の鍵を社会の「修道院化」に見出した。禁欲的な労働がおおきな転換をよんだ。世俗的な職業を広めたのはルターであり、信仰予定説を唱えたカルヴァンは世俗的な職業における業績や収益を救いの証であるとみなした。それにおって勤勉な労働が強迫的なものとなった。 極度に禁欲的なプロテスタンティズムが、近代資本主義をもたらすのに大きな役割をした。”天職として労働義務を遂行し、それを通して神の国を求めるひたむきな努力と、ほかならぬ無産階級に対して教会の規律がおのずから強要する厳格な禁欲とが、資本主義的な意味での労働の「生産性」をいかに強く促進せずにいなかったかは全く明瞭であろう。”(プロ倫) プロテスタンティズムがもたらしたのは規律・禁欲・勤勉というエートスである。
カルヴァンの予定説。それは人間の救済は人間の行為や意思と関係なく、神の自由な恩恵によって決まる。自分が救われるべく定められているかが分からないという不安と緊張のなあkで、信徒はあたかも労働が絶対的な自己目的・天職(Beruf)であるかのように励む。このようなカルヴィニズムが禁欲・勤勉というエートスをもった人々にもたらした ウェーバーは資本主義の出現を経済的下部構造(生産様式)だけではなく、経済外的な要因である観念的上部構造、すなわち”新しい精神”に見出そうとした。観点的な上部構造の相対的自律性を主張した。マルクスの資本論では物と物の交換から生じる力を物神とよんだ。
産業資本に必要な労働者は自由であると同時に、自ら規律に従うようなものではないといけない
フーコー:パノプティコンの監獄。囚人からは監視員が見えないが、監視員は囚人を観察できる。この仕組みによって、囚人は常に監視されていることを強く意識するために、規律化された従順な身体を形成する。このようなひとりひとりに及ぶ支配を”生権力bio-power”とよんだ。このとき国家(権力)の力は観念としてよりもむしろ規律訓練によって形成された”身体”において存在する 王の奇跡を下に、ゲルマン的な共同体が解体され自ら自発的に王に服従する臣下が増えていった
ベネディクト・アンダーソン想像の共同体:ネーションは共同体が解体された後に想像的に再建された概念である。まあそれを推進したのは、資本主義経済の成立、印刷を通じた情報技術の発展。
民族とナショナリズム:産業社会の勃興と国民形成の関連性を強調。学校教育によって、産業社会へ適合するために必要な規律や標準語、読み書きできる能力が養成された。したがってナショナリズムが標榜する伝統や民族なるものは産業資本主義社会を形成するために求められた読み書きできる能力を裏付けるものとして、それがあたかも過去にあったかのように想定されたものでしかない
新都市の形成。商人資本から産業資本への転化が起こったのか。この問いは別の言い方でいうと共同体にいた農民が、どこで
いかにして賃労働者に転化したのかという問いでもある。エンクロージャーなどもあるが、新都市の出現はある。マニュファクチュア(手工業)が勃興したため。そうして流入してきた生産する労働者が同時にその消費者となる。それが新都市において出現した。
産業資本は蓄積を続けようとすれば、生産物をより安くできるような技術革新、また新しい製品をださなければならない。したがって産業資本には絶え間ない技術革新が動機づけられる
マルクス:貨幣の力を、共同体と共同体の間での物品交換に見出した。商品の価値を生産でなく交換に見出した。商品の価値を「商品の内在的精霊」あるいは物神、交換において生じる観念的な力として見出した。
エンゲルスのユートピアから科学へ:社会主義革命は二段階で行われる。プロレタリアートが国家権力を掌握すると、それがまず生産手段を国有にする。そしてこうすることがプロレタリアートがプロレタリアートを止揚し、一切の階級差別と階級対立を止揚し、そしてまた国家としての国家も止揚することである。 しかしこのような見方は国家を甘くみるもの。国家はたんに支配階級が用いる装置なのではない。それは交換様式Bから生じる力であり、観念的な力として残り続ける
ネーションを形成したのは2つの要因。中世以来の農村が解体されたために失われた共同体を想像的に回復しようとした。もうひとつは絶対王政の下で臣民とされた人々がその状態を脱して主体として自立したことである。ネーションはAの低次元での回復である。
資本の自己増殖を可能にするのは差異化:生産からサービスへ(ポスト工業時代)。アダム・スミスは運輸業は新しい生産物をつくりだすのではなく、人と物を移転させるサービスであると見ていた。しかしマルクスは運輸業が売るものは場所の変更そのものであるという。場所的運動こそは運輸手段による生産そのもの。>資本制の下での生産とはむしろ差異の生産。工業的産物が有形であるのに対して運輸がもたらす財は無形である。そのように今日では無形のもののほうが支配的になってきた。いわば資本のない資本主義が出現した。
1929年の世界恐慌はそれまでの自由主義的経済、およびそれと直結するブルジョア経済学を破綻させた。資本主義国でも社会主義国と類似した経済政策がとられるようになり、つまり国家による通貨管理と有効需要の創出というケインズ主義が受け入れられた。しかし日本やイタリアなどではネーションにもとづく対抗革命が進められた。ファシズム。それは強大な資本主義に対抗すると同時に社会主義に対抗する運動。交換様式でいえばCとBに対してAを優位におくような運動である
フランシス・フクヤマが歴史の終焉をいったが愚かしい議論であり、歴史の反復を表す。それまで第1世界を統率し保護する超大国として自由主義を維持してきたアメリカがそれを放棄し、新自由主義を唱え始めている。つまり、資本主義経済のヘゲモンとしての米国の終焉が生じた。これは19世紀後半にイギリスが産業資本の独立的優位を失い、それまでの自由主義を放棄して帝国主義に転化したことと類似する。 トマスピケティの21世紀の資本はマルクスの資本論の再評価である。新自由主義・ネオリベラリズムによって虐げられたケインズ主義あるいは社会民主主義を別の言葉で回復しようとしてる。典型的なのはベーシックインカム。21世紀の資本では資本主義の揚棄をめざすものではなくネーション=国家によってそれを支え維持しようというもの。BとAを全面にだすことでCを援護し維持しようとしているもの 未来学者ジェレミー・リフキンは情報産業の発展とともに「共有型経済」すなわち人々が協同でモノやサービスを生産し、共有し、管理する新しい社会が可能となるといっている。
しかしこのような社会改革案に共通するのは資本主義経済を人間の意思によって操作できるという考え方である。しかし資本や国家の力は物神や怪獣のような力であり、人間の意思を超えている
マルクスによれば絶え間ない差異をおっていくので資本が滅びることはない。つまり資本主義の終わりはない。資本はなんとか新たな差異を見つけ出す。それが困難になったときは国家=ネーションが動員される。つまり国家の経済政策が代わり、さらに対外戦争にも至る。
資本主義から氏族社会へ。生産様式の観点からみればそれは未開段階に逆行する。要するにマルクスは資本論で資本主義経済に交換様式Cを見出したように氏族社会に交換様式Aを見出した。
マルセル・モースの贈与論では、ニュージーランドのマリオ族に従って、贈与されたものにはハウ(精霊)が宿っているからだという。 人類学者モーリス・ゴドリエは所有の観念から捉え直した。あるものが共同体保有であるとき誰かにそれを贈与したときに使用権を与えているが所有権は譲渡されない。ゆえに贈与されたものは所有権を返礼しないといけない義務をもつ
近代国家・資本主義の発展、つまりBとCの拡大とともに村落共同体Aは解体されれいった。ただある意味では回復した。それは資本主義経済の下でネーション(共同の想像体)が形成されたからである。しかしそれは低次元でのAの回復である。その結果でてきたのがネーション=資本=国家である。Cの下でのAとBの結合をマルクスはイギリスに見た
交換様式Aから来る力に関しては注意が必要である。まずそれは神強制。すなわち祈願や呪術につながる傾向がある。また家族的な共同体にとじこもることにむすびつきがちである。そのため宗教はしばしば、前近代的迷信、あるいは民衆のアヘンとして否定的に見られる
しかしAは人間にとって基礎的な在り方であるから。実際マルクスはそれを古代社会に見出している。
BやCをやめることはできないので、Aに基づく社会を形成することが重要。がそれはローカルにとどまる。DはしかしAと違って向こうからくる。Aの反復、いいかえればAの高次元での回復でDが到来する