メイヤスー
メイヤスーが2006年に出版し、その後「思弁的実在論」の運動を形成するきっかけになったのが、『有限性の後で』です。アラン・バディウの推薦もあって、この本によってメイヤスーは一躍、現代思想界の中心に立つようになりました。 では、この本で彼は、何を語ったのでしょうか。彼の基本的な視座となっているのは、カント以来の近代哲学の中心概念が「相関」になったという洞察です。その意味を彼は、次のように説明しています 私たちが「相関」という語で呼ぶ観念に従えば、私たちは思考と存在の相関のみにアクセスできるのであり、一方の項のみへのアクセスはできない。したがって今後、そのように理解された相関の乗り越え不可能な性格を認めるという思考のあらゆる傾向を、相関主義と呼ぶことにしよう。そうすると、素朴実在論であることを望まないあらゆる哲学は、相関主義の一種になったと言うことができる。
メイヤスーによれば、こうした「相関主義」は、20世紀の現象学であれ、分析哲学であれ、免れてはいません。そして、言うまでもなく、言語論的転回やポストモダン思想も例外ではありません。メイヤスーはこうした相関主義を乗り越え、思考から独立した「存在」へと向かうのです。その意味で実在論を目ざすのですが、かつての「素朴実在論」とは区別されます。
むしろ、彼が「実在」と考えているのは、数学や科学によって理解できるものです。その立場を、メイヤスーは「思弁的唯物論」と呼びながら思考を深めていくのです。
人間の思考から独立した「存在」を考えるために、メイヤスーは人類の出現以前の「祖先以前性」を問題にしたり、人類の消滅以後の「可能な出来事」を想定しています。これらは、「人間から分離可能な世界」として、科学的に考察することが可能でしょう。それなのに、「相関主義」はそのような理解に目を閉ざしてきたのです。
こうして、メイヤスーによれば、カントの超越論的観念論(認識論的転回)も、20世紀の言語論的転回も、ポストモダン思想も、相関主義に他ならず、批判されなくてはならないのです。
メイヤスーにより提起された、相関主義に対する一つ目の問題点が祖先以前性という考え方です。どのような考え方かと言うと、「人間が存在しなかった過去(=祖先以前)について語ることが、相関主義の立場だとできない」というものです。 確かに、相関主義、特に強い相関主義では、「人間の認識できないものについては語りえない」としてきました。と言うことは人間という生物が存在する以前の世界については、そもそも認識する主体となる人間そのものがいなかった訳ですから、語ることができないことになってしまいます。
一方で、化石の放射線同位体による解析などから、科学的立場になって考えると「人間が存在する前も確かに世界は存在していた」となります。相関主義の立場から言えば、このような祖先以前の世界の存在を「語りえぬもの」として一瞥するわけですが、これは人間が存在する前の「世界の存在」というものについて追求する可能性を失っているのではないでしょうか? メイヤスーはこのようなことを問いかけている訳です。
相関主義に対する二つ目の問題点が信仰主義と呼ばれる考え方です。これは「理性を突き詰めてた結果、超越的なもの(例えば神など)にアクセスするには非理性に頼るしか無くなってしまった」という問題点です。これは一体どう言うことでしょうか? 神という存在は、人間が認識できないものです。相関主義はこうした認識できないものを「語りえないこと」として議論の対象外としてきたのでした。つまり、哲学は理性というものを突き詰めて相関主義という考え方を生み出した結果、人間の認識外に存在する超越的なものについては存在するとも存在しないとも言えない(というより議論する意味がない)という結論を導き出すわけです。これは理性の限界でもあります。 一方、人間というものは超越的なものに憧れるものです。(例えば中世における神もそうですし、現代に即して言えば「なろう系小説」が流行したのも、ある意味で超越的なものに対する憧れがあるのだと勝手に思っています。) そうした超越的なものの存在を認めたいとした場合、理性に頼ることができないため、必然的に非理性的なものに頼らざるを得なくなってしまうわけです。
哲学というものは理性という、論理的な推論から発達してきました。一方で超越的なものに憧れる人間にとって、相関主義を突き詰めるということは、理性の限界を示してしまい、信仰などの非理性的なものへ誘導してしまう、というのが信仰主義の考え方です 相関主義的な考え方には「祖先以前性」と「信仰主義」という二つの問題が生じたのでした。メイヤスーはこれらの問題をどのように解決したのでしょうか。その答えのカギは、「理性の限界」ということ自体が「理性による帰結」であると捉えることにありました。
相関主義的な考え方には「祖先以前性」と「信仰主義」という二つの問題が生じたのでした。メイヤスーはこれらの問題をどのように解決したのでしょうか。その答えのカギは、「理性の限界」ということ自体が「理性による帰結」であると捉えることにありました。
相関主義は「人間の認識の範囲外は語りえない」と考える立場です。思弁的実在論では、この相関主義と同じ意味のことを、次のように違う言葉で表現します。「人間の認識の範囲外ではどのようなことでも起こる可能性がある(=偶然性)、という命題は人間の存在の有無に関わらず成り立つ(=必然性)。」 このことは「偶然性の必然性」と呼ばれます。 相関主義では認識の範囲外のことを「語りえない」という表現を用いて「理性の限界範囲」を表現している、という意味でネガティブに捉えていますが、一方で思弁的実在論では、理性により相関主義を突き詰めた結果、「偶然性の必然性」という絶対的な法則を得ることができた、という意味で認識の範囲外のことをポジティブに捉えている、ということができる
メイヤスーが言うところの偶然性は、例えば「手に持った石を離した次の瞬間に自然法則が書き変わり、石が明後日の方向へ飛んでいった」だとか、「今は神は世界に存在しないが、やがて将来、神が出現して報われなかった魂を救済してくれる」だとか、もはやなんでもありの偶然性です。ゆえにこの偶然性はハイパーカオスとも呼ばれます。 私たちは哲学という学問において、理性を突き詰めて相関主義をさらに煮詰めた結果、「偶然性の必然性」という法則を得ることができました。言い換えると「思弁」を追求することにより、「実在論」的な法則を得ることができたのです。ここまで来ると、なぜメイヤスーの議論が「思弁的実在論」と呼ばれるかが分かったかと思います。