思弁的実在論
相関主義とは、世界(あるいは存在)と人間(あるいは思考)という二項を両者の相関関係においてのみ考察し得るものとみなし、一方を他方から切り離して哲学の対象とすることを禁じるような、イマヌエル・カントのコペルニクス的転回以降の全ての哲学(分析哲学も含む)が無意識のうちに被ってきたある種の制約、罠のことを指している。 思弁的(speculative)とは、日常的な状況設定を超えた想像力と推論の展開を指すという点において怪奇的(weird)というキーワードと(時には)交換可能でありながらも、まず何よりカントの『純粋理性批判』の第2版序文でなされたあの思弁的理性の不当な使用に対する批判への、実に220年ぶりの反批判をマークする特権的な形容詞として理解されるべき単語なのであり、また実在論(realism)とは、あらゆる観念論的(idealistic)傾向を排して哲学を行おうとする固い決意、素朴さ(naiveness)と取り違えられることも恐れずなされた、現代すなわち言語論的転回(the Linguistic Turn)以降の哲学的メインストリームに対するある逆張り意識の明白な記号と読まれてしかるべきものなのである。両者は常に共に、SRの自己意識の中心をまぎれもなく占拠している。 物の存在について、古くは「実在論」という考え方が主流でした。これは「物の存在は人間がいなくても成立する」という考え方です。ところがこの実在論的な物の見方はカントやハイデガー、ウィトゲンシュタインといった哲学者により改められていきます。机の上のりんごを見た時、りんごが好きな人は「おいしそうなりんごが存在している」と思い、りんごが嫌いな人にとっては「あまり好きではないりんごが存在している」と思うことでしょう。この時、存在のあり方が人間の認識によって変わっていることが分かります。このような考えを突き詰めて、「人間がものを認識することで、初めて『存在』が生まれる」という立場の考え方が「観念論」と呼ばれる物です。この考え方は、人間は「存在」と「認識」の相関関係にしかアクセスすることができない、という意味で「相関主義」とも呼ばれます。 祖先以前性とは、「人間が存在しなかった過去(=祖先以前)について語ることが、相関主義の立場だとできない」という問題です。また信仰主義とは「理性を突き詰めてた結果、超越的なもの(例えば神など)にアクセスするには非理性に頼るしか無くなってしまった」という問題でした。
これら二つの問題点を解決するために、メイヤスーにより提案されたのが「思弁的実在論」という考え方です。思弁的実在論では、相関主義が陥った「人間の認識外の存在に対する理性の限界」を、次のように言い換えます:「人間の認識の範囲外ではどのようなことでも起こる可能性がある(=偶然性)、という命題は人間の存在の有無に関わらず成り立つ(=必然性)。」このことは「偶然性の必然性」と呼ばれます。
「思弁」という単語は聞きなれないですが、ここでは「観察や経験に頼らず、論理的に推論する」くらいに思っておけば大丈夫です。
結論から言うと、「実在論」とは「人間の認識なしでモノが存在する立場」を表します。一方で「観念論」とは「人間の認識があってはじめてモノが存在する立場」のことを表します。 。そもそも「観念」とは、対象物に対して心の働きが加わったもの、つまり認識されたもののことを指します。観念論的に言えば、このりんごは、人間が見て、脳で処理をして、初めて「そこにりんごがある」と確認することができる訳です。この場合、りんごを認識する人によって「存在」の在り方は変わるでしょう。例えば、りんごが好きな人にとっては「美味しそうなもの」が存在していることになりますし、りんごという果物を知らない人がもしいたら、「何か赤くて丸いもの」が存在していることになります。
このように考えると、りんごは人間の認識なしでは「存在」として成立せず、りんごの「存在」と人間の「認識」は切っても切り離せない関係にあると考えることができます。このようにして「存在」というものを考える立場こそが「観念論」という考え方に当たります。
なお、観念論は、上記のように「存在」と「認識」はセットで考えなければならない(=人間は「存在」と「認識」の相関関係にしかアクセスできない)という意味で、「相関主義」とも呼ばれます。 人間が認識をする前のモノ(=物自体)の存在と、人間が物自体を認識した結果生じる存在(=現象)の両者を、初めて分けて考えたのがカントだ、ということです。