オルテガ 大衆の反逆 真のリベラルを取り戻せ
近代の人間は、どうしても「私」は「私」を所有していると思いがちですが、実は「私」の本質は、そのほとんどが、私が選んだわけではないものによって成り立っている
オルテガは、右か左かという二分法を嫌いました。「これが正しい」と、一方的に自分の信ずるイデオロギーを掲げて 拳 を上げるような人間が、嫌で仕方がなかったのだと思います。そうではなく、右と左の間に立ち、引き裂かれながらでも合意形成をしていくことが、彼の思い描いた「リベラルな共和政」
オルテガは「大衆に迎合しない」人でもありました。大衆とともにありつつも、自分自身はあくまで孤独であろうとし続ける。迎合はしないけれど、孤立もしない。そのバランスが、オルテガの独特なところ
自分の居場所をもち、社会での役割を認識していて、その役割を果たすために何をすべきかを考える人。それが、彼にとっての本来的な「人間」だった。しかし、近代人はそうではなくなり、「大衆」化してしまっている。そして、その「大衆」は、たやすく熱狂に流される危険がある。これが、「大衆の反逆」という問題設定
都市に出てきた人たちは、自分が自分であることを担保してくれる場所、つまりトポスを捨ててきています。農村ではローカル共同体の構成員として意味づけられた存在だった彼らが、都市の労働者となり、代替可能な記号のような存在として扱われるようになっていく
地縁や血縁で人間が拘束されている社会を「ゲマインシャフト」、個人と個人の契約などによって成り立っている社会を「ゲゼルシャフト」と呼び、近代社会は必然的にゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ移行していく
フーコーの言う「個性を奪われた人間」を、オルテガの言葉で言うならば「平均人」ということになるでしょう。『大衆の反逆』の冒頭近くで、オルテガは、人間がどんどん均質化されていっていることを指摘し、「大衆とは《平均人》である」と書いています。そのあとには、こうあります。 それは、質を共通にするものであり、社会の 無宿者 であり、他人から自分を区別するのではなく、共通の型をみずから繰り返す人間 平均人は、少し変わった人、能力をもった人の芽を摘んでいこうとする。自分の個性を発揮しようとすれば「平等」の名の下で抑圧され、個性が奪われていく。そういう時代がやってきたと言うのです。 現時の特徴は、 凡庸な精神が、 自己の凡庸であることを承知のうえで、 大胆にも凡庸なるものの権利を確認し、 これをあらゆる場所に押しつけようとする点にある
「自分はこうなのだ」という根っこや、自分を超えたものに対する畏敬の念がなく、周囲が「これがいい」と言えばすぐに流されていく。風船か何かのように、時代の波に 抗うことなく、また別の風が吹いたらそちらへと流れていく。それが「大衆的人間」だと言っています 大衆の「正しさ」の根拠は何かと言えば、「数が多い」ことでしかない。それが何の根拠になるのかとオルテガは言い、彼らを自分が多数派だということにあぐらをかいている「慢心した坊ちゃん」と呼ぶのです。 絶対的な正しさのようなものを特定の専門分野だけでつかむことができるという「科学主義」こそが、総合的な人間の心の機微や感性、あるいは合意形成のすべといった、分厚い文明的な、人間的なものを失わせ、人間を原始人、野蛮人に変えてしまうのだと言うのです。オルテガにとって、断片的な専門知だけで複雑な世界に答えを出そうとする態度こそ単純化・単一化の極みだった
三十年間の激しい戦いを経たにもかかわらず、どちらが正しいという結論は出なかった。そこで人々は気付くのです。「価値観の問題については、戦争をしても結論は出ず、人が傷つくだけである」。ここに現れたのが「リベラル」という原則でした。 つまり、自分と異なる価値観をもった人間の存在を、まずは認めよう。多様性に対して寛容になろう。自分から見ると 虫酸 が走るほど嫌な思想であっても、それはその人の思想だと受け入れることが重要だと考える。これが近代的「リベラル」の出発点 リベラリズムを共有することは、非常に面倒で鍛錬を伴うというのがオルテガの認識でした。自分と考え方の異なる人間に対して、すぐにかっとなったり、一方的に支配したりしようとせず、違いを認め合いながら共生していく。それは手間も時間もかかる面倒な行為であるけれど、それを可能にするために人間は、歴史の中でさまざまな英知を育んできたと考えていた。 重要な手続きや規範、礼節などを面倒くさがり、省略してしまうのが大衆の時代ではないか、とオルテガは言います。大衆は、そんな面倒なことをするよりも多数派で決めてしまえ、多数者にこそ正しさが宿るのだ、と考える。「リベラル」の根幹にあるはずの、互いの自由を保障し、引き受けるという文明性が大衆の時代に破壊されつつあることに、彼は警鐘を鳴らそうとしていた