超軽工業
#単語帳
渡邊恵太による本。
2025/03/29
イベントで渡邊先生にありがたみについて質問。
「お金かけたほうがありがたいと思うのであれば、お金をちゃんとかけたときとかけないときでありがたみがどう違うのかとか、評価したら面白いのでは?ゲームでも、わざわざ遠回りして行かないといけないことをありがたがったりするし。デジタルならではのありがたみがあると思う」
制約ばかりに目を向けるのではなく、この時代だからこそ可能な代替案を提案するのがフレキシブルで素敵。
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なぜスマホなのか。なぜVRなのか。なぜARなのか。(中略)デジタルの利用によって想像と欲望を処理することこそが、無尽蔵な人の欲望への柔軟な許容を実現でき得るからである。
百億人で豊かに地球に住む方法とも言える。
地球上のリアルな物理的体験に匹敵する、あるいはそれ以上の心地よさや感動を提供する方法を、私たちは理解する必要がある。(中略)「私はアナログとか実世界が好きだ」という主張は、ならばよりいっそう物質世界を消費から保護し、消費の中心をデジタル化せねばならない。
さすがだな……。自分が欲していた人類学的視点、歴史的視点はここにあるかもしれない。
iPhoneはどうよくできているのかの章
→情報アプライアンス
(全画面占有という)方法はとても強力である。なぜかというと、スマホは多機能端末であっても、アプリを起動すると単目的の専用デバイスとなるからだ。(中略)単機能化とフルスクリーンにより、スマホが一時的に「ある専用装置に化ける」。
iPhoneは多機能ではあるが、ユーザーは多機能を多機能のままに使うのではなく、ある目的に特化した専用装置に化けさせて使っていることになる。これは従来の多機能の概念とは大きく異なる。
Infobarの深澤直人と中村勇吾の対談。プロダクトデザイナーとUIデザイナーの役割が入れ替わっている
https://gyazo.com/c4ca4220eafa2fc5bad99e4e4b20e880
デザイン思考とソフトウェア
むしろソフトウェアは、人間中心的に考えずに何を考えるのか、というくらいには人間中心、利用者中心に考える。
これは物質性/アイデア性のゆえん。何かと精神をやり取りするインターフェイスがあったとき、人間に寄せるかありのまま見せるかということ。
実在のデザイン
「知覚レベル」「存在を成り立たせる」「実在させる」というと大げさに聞こえるかもしれないが、私たちが使っているスマホやパソコンの設計は、この実在の質を高めることとの戦いだったところがある。
問題は、その専門がデザイナーなのかエンジニアなのかが整理されていないところにある。そもそもそういった視点があることに気づいていないのかもしれない。UIデザイナーは、ソフトウェアの意味レベルのデザインはできても、実在レベルのデザインができるかはわからない。
メンタルモデルデザインはビジュアルだけでは不可能。
本書では、こうした実在のデザイン、もしくは新しい実在に挑戦する領域を「超軽工業」と呼ぶ(これについては第5章で詳しく述べていく)。
楽しみすぎる!!!
2025/03/16
第4章
プラットフォーマー的な企業のことを「PDU企業」と呼んでいる(Platformer, Developer, Userの三つのステークホルダーがいることから)
そしてPDUであることがメタメディア性と密接に結びついている。
日本の多くのメーカーはDU構成である。そうした構成であることが多い日本企業でのハッカソンは、Pの発想とはだいぶ違ってきてしまう。つまり「自社が取り組むべきものとして面白い・よいか否か」で判断してしまうのだ。
プラットフォーマーとして、実際にアイデアを提出した人たちをエンカレッジし、自社プラットフォームの顧客にすることがハッカソンの目的であり、それがない状態でやってもふわっとした結果にしかならないという指摘。
つまりハッカソンは、アイデアの品評会ではなく、戦略的にコミュニティを形成しながら開発者を育てる投資で事業の中心に近い活動なのである。
プラットフォーマーは何をすべきなのか
まずプラットフォーマーは、大きなビジョン、どういう世界にしたいのかの世界観を発信する必要がある。したかってプラットフォーマーは、「なぜつくるべきなのか(Why)を考える必要がある。その上で、その世界をみんなで実現するために道具や環境を開発し、整備する必要がある。
第5章
さらなる欲望の置き換えのための、メタファからの脱却?
筆者は「インタフェースデザインとインタラクションデザインはどう違うのか?」という質問をよく受けることがあるが、この文脈で言うならば、インタフェースは「操作のデザイン」であり、機器に従属するデザインでその改善を試みるものである。一方、インタラクションデザインは人間側の属性を最大限に取り込む「行為のデザイン」であると回答する。
5-3:「身体性を超えて─新しいメタファ、新しいインタラクションの模索」アツい
個人が使うコンピュータとハイバーテキストを実現するメディア(ハイパーメディア)を融合させたのが、(序章で述べたとおり) アラン・ケイである。それをパーソナルコンピュータ=PC(パソコン)と名付け、やがて個人がコンピュータを使う世界が来ることを示した。対話型で使える「小さなコンピュータシステム」を目指す流れは他にも複数あり、トランジスタの実用化や集積回路の登場とともにコンピュータは小型化していったが、ここで注目するのは、ヴァネヴァー・ブッシュ、ダグラス・エンゲルバート、ケイらの思想、すなわちパソコンを「人の想像の増幅装置」と考えたところである。
「思考」が人間を人間たらしめるという思想の時代に、人間らしさを支援する方法として思考の増幅装置があったのであれば、「感覚」や「直観」の増幅装置としてコンピュータを使うこともできるのかな?
想像という「世界」
リンゴをじっくりと思い浮かべてみてほしい。あなたの知っているリンゴらしきものが頭の中といわれるような場所に薄っすらと立ち上がってくる。次にバナナを思い浮かべてみよう。やはりバナナの像らしきものが立ち上がってくる。辛い食べものを思い出してみるだけでも、人は発汗や唾液量が増すことがある。
この像の素材は何であるかわからないが、絵的(イメージ)と言われることもあれば、そうではない説もある。はっきりしないが、そうした輪郭を立ち上げたり消し去ったりが常に繰り返せる便利な場所想像世界を私たちは持っている。モノのように保持力はなく、輪郭もはっきりしない融けた世界だ。他人に共有されない、自分だけの安心できて心地よい自由な世界である。
私たち人間にはどうやら考える場所、想像する場所、思い浮かべる場所、自分だけの内なる世界がある。 このことは多くの学問でも前提であるし、誰しもがそれを経験的に理解している。意識ともいえるのかもしれない。個々人の内なる世界であって、直接共有はできないため、その存在を明確に示すことは困難である。 しかし、どうやら私たちはその場所、世界をうまく使っている。デジタル空間を物理世界と同じように対比して一つの世界として認識するならば、私たちの頭の中の世界もまた同じように空間的に捉えられるし、一つの「世界」である。
ちょっとアツすぎる。物質性/アイデア性
想像世界はそれぞれの個人の中にあるため、現象的で実体があるわけではない。しかしそれは思考であったり、感情であったり、記憶であったり、アイデンティティであったり、人間活動の根源を担うような場所、 現象でもある。一般的に、物理世界とよく対比されてきたのはデジタル世界だ。しかし、パーソナルコンピュータの誕生を振り返ると、その人間の想像という現象、場所から設計・検討されてきた歴史がある。 本書での提案は、物理世界とデジタル世界に加えて、想像世界を対比に加えてはどうかということである。
これは提案というより最初の発想に戻ろうというものである。
マジでこれ!!!
軽く自由だが儚い想像世界
学術的にはこうした仕組みについては、「想像」とは言わずに「心的イメージ」や「心像」と呼ぶ。
想像世界は、それ以外の世界と感覚器を通じてインタラクションしながらも、その中では、ちょっとしたプロトタイピング (試作行為)をしている。ああでもない、こうでもない、こうしたらどうだろうと動かしたり組み替えたり、 ささやかな創作である。試行、試行錯誤、シミュレーションともいう。材料はどうやら言語的なものだったり、数字的なものだったり、画像的なものだったり、さまざまだ。体験の再現、シミュレーションもできるようでもある。辛いものを食べることを思い浮かべると唾液量が増えることもある。こうした想像の中の状態は直接観測できないが、どうやら人によってだいぶ違うようでもある。
物理的な労力はかからない。逆に、何も考えないことが難しいくらい、常にふつふつと何かを思い浮かべてしまう。
この世界は他者から直接介入はなされないため、ここを自由と言わずしてどこを自由というのかわからないほどには、自由で豊かな場所である。
やばいやばい
想像世界はすばやいプロトタイピングができ、軽さはあるが、「理想と現実」という表現があるように、理想(想像世界)とその外側の物理世界の間には溝がある。
すなわち、このサイクルの回転のよさは、「人が考えるかのごとく」の性能の向上である。人にとってよいソフトウェアとは、よいUIが設計されているかであり、よいソフトウェアは想像に集中できるものである。
だとしたら、今の課題は「自分が考えていることが、はっきりとはわからない」ことかもしれない。何を考えているのかがより明確にわかる、リアルタイムに整理できることが次の創造性の基準を生むだろう。
コンピュータを使うこと、デジタルであるということは、想像のように試すことが自由なもので、しかもそれは目の前で知覚、体験できる。三つの世界を考えると、デジタル世界と想像世界は似ているところがある。というより、デジタル世界はメタファこそ物理世界を参照したところはあっても、そもそもパソコンを生み出したアラン・ケイはパソコンを想像・空想の増幅装置として考えたのだ。
二〇世紀末から入ってきたデワタルな方法であるコンピュータやインターネットは、物理世界で人の生活
を成するものとしては物的存在であった。私たちは四半世紀の間、デジタル世界と物理世界を対比し議
論してきた。それゆえ、デジタルをペースにしたパソコンやスマホがつくる世界は「物理的ではない何か」 だったし、それを目の当たりにした人々の価値は、むしろ物理的であることが意義深く、デジタルであるということの面白さは留保しつつもポジティブに語られることはあまりなかった。パソコンやインターネットを使うことに魅力を感じても、そのよさや豊かさの説明が難しかった。あるとしたら「便利」といった効率の文脈で語られ、それは豊かさとは直接結びつきにくかった。私たちは常に物理世界に価値のベンチマーク
を履いていたので、いつになってもデジタルであることのよさにたどり着けなかった。
しかし、「デジタル」対「物理世界」に加えて「想像世界」を置くことによって、デジタル対フィジカルの不毛な論争を避けることができる。そして想像世界を理想として置ける可能性が出てくる。しかもデジタ世界は想像世界の仕組みに近く、想像世界を見立てとして目指すことでフィジカルでは実現し得ない想像世界性質を積極的にデジタルで実現することができる。つまり、デジタルはたとえば「物理世界みたいに悪さがなくてイマイチ」ではなく、「想像世界のように軽くていいね」という価値をフレームとして持つべきである。「軽さ」ということについてはこのあと説明していくが、この指針の違いによってつくり方も作ふれるものも変わる。物理世界をメタファとすることは、いい意味で人を騙してきたが、悪い意味では、そうしたコンピュータは物理世界を投影するものであるという認識を与えてしまった代償がある。
やばい(泣)
つまり、デジタルにネイティブというより、アラン・ケイらの考えてきた「ファンタジー増幅装置」としての思想にネイティブになろうとするのではないか。
これでできることとできないことがある、というところまでは来ている。その制約との仲介をいかにするかがデザイン、ひいてはプロダクトの役割。
物理世界だけでなく、他人との共同作業のときには他人の想像世界との差によって共通言語が必要で、それを埋めるのがプロダクト。
BCIxDでは、心的イメージを操作し、安定した脳波のパターンの生成をいかに実現するか、それを使って何ができるのか、どういう体験をもたらすかについてさまざまな模索をしている。その一つのプロジェク下を紹介する。それが「オノマトペ BCI」である。
先ほど、心的イメージには人間の感覚器や身体に応じたものがあることについて述べたが、これらの感覚イメージは組み合わせができる。生成AIでも「マルチモーダル(多感覚)」と呼ばれる画像や音での入力・ 生成があるように、心的イメージにおいても感覚イメージを組み合わせることができる。そこで筆者らは、 オノマトペ(擬音語、擬態語)を視覚イメージと組み合わせる方法を提案し、検証している。
具体的には、脳波トレーニング時にたとえば回転するキューブを見ながら、頭の中で「くるくるくる脳内で発声のイメージをする。脳内の発声は内言と呼ばれる。トレーニング後は、実際にキューブを回転させたいときには、脳内で「くるくるくる・・・・・」と内言しながら回転イメージを思い出すと、眼の前のキューブが回転し始めるというものである。現在研究中ではあるが、実験したところ、この方法は体験者の認知負荷も低く、脳波としても回転を検出できることが確認できている。
筆者らはこの方法を応用し、たとえばVRやビデオゲームでのキャラクター操作に「トコトコトコ」で歩くとか「タッタッタッ」で走るとか、「ピョンピョンピョン」でジャンプをするなどを試しており、実際に動作を確認している。この中で個人的にお気に入りなのは、魔法の発動である。たとえば「メラメラメラ」 は後のオノマトペであり、「メラメラメラ」と内言すると炎の魔法が発動できる。
https://keita-lab.jp/bcixd
やっぱりBCIなのか。自分が感じていた「身体性」への違和感が全部addressされている。マジで論文動向を見たほうが良さそう。
第6章:超軽工業へ
また、ソフトウェアの設計において物質世界を理想郷としメタファとして利用してきたことは、それが普及に貢献する優れた方法であったとしても、ことさらに物理世界の価値を誇張し、デジタル独自の理想イメージの探索と共有を阻んでしまった可能性もある。
それでは超軽工業の具体的な特徴とはなんだろうか。まず端的には、デジタル情報およびデジタル技術を利用した人間の知覚や認知原理法則に基づく設計や工法を特徴とする工業・産業(ものづくり)、あるいはその学問である。従来の工業は、物質に基づくため、物理法則や物の性質を前提とする。
きたああああ
→だからUI歴史学が必要!何を求めているのか、どんなメンタルモデルがそもそも構築可能なのか
超軽工業の第一の特徴として知覚原理に基づく設計であることを述べた。そしてその事例として、ビデオゲームとVRを例にその考え方を述べた。超軽工業では、よりよい体験をつくるために人間の知覚認知を十分に理解し、その上でその仕組みをハックするような手法が求められていく。主には、デザイナーやものづくりに関わる人がその役割を担うことになる。これは、これまでもそういうところがあった。たとえば斬新な体験を与えてくれるウェブデザインやUIは技術から生まれるだけではなく、人間の知覚理解やそのハックから生まれる。デジタルには物理法則や物性がない以上、プログラムによるコーディングと知覚の理解が存在感や体験を与える源泉となる。
これも大事だよね
6-4 超軽工業の考え方1─サーフェイスの原理
軽工業の考え方の一つとして、「サーフェイス」が挙げられる。これまでのものづくりにおいて、人類は 「表面を工夫することで本物と同様の感覚を与えることが可能である」ことを発見し、実践してきた。見た目や一部の触り心地といった体験は、表面で起こる現象である。
「表面的」という言葉はネガティブに捉えられがちであるが、実際には私たちは表面しか知覚することができない。ネガティブな印象が生まれるのは、その表面に伴う構造や挙動の性質の理解を軽視するような経験的・比喩的意味合いにおいてであり、知覚的な側面からではない。
6-5 超軽工業の考え方2─インタラクションの原理
https://gyazo.com/a806d68c82ca6d897f36fd2e84583638
ハックの一例としてUnlimited corridorが出てきた。素晴らしいけど、なんかこの本で言うべきなのはそういうことではない気がする……?まああくまで一例なんだと思うが
6-6 超軽工業の考え方3─メタファの原理
たとえば、「ページ」の概念は、私たちにとってあまりに自然過ぎて、厳密にはそれはコンピュータにおいては見立てであることに気づきにくい。たとえば、文化的に「本というものはこういうもの 」という認識を持っており、またコンピュータ内でもページの概念はよく使われているため、紙的な発想の呪縛から抜け出せなくなることもある。しかし一方で、電子書籍のKindleはフォントサイズを自由に変更できることから、ページ数ではなく、現在読んでいる部分が何%なのかという表現を使っている。また電子漫画サービスも、いくつかのサービスにおいてはページの概念がなく、縦に並んだコマをスクロールするものが出てきている。
こうした新しいインタフェースを導入するためには、人間の認識や文化、常識など知識に囚われすぎていることをいったん保留にしなければならない。それがデジタルネイティブ的と言えるかどうかは難しいが、 ソフトウェアにおける設計は、そもそも人がどう世界を認識しているか、あるいは認識しようしているかに影響を受けるところがある。設計者は、その認識を常に疑いながらも、新しい表現を模索し、それでいて、 多くの人が合意可能な表現、時代感に合う表現を模索する必要がある。その意味で、人にとってのコンピュータの発展というのは、人間のこうした物の見方に依存している部分が大きい。物の見方がその使い方を決め、社会の中での意味や役割も決まるからである。ゆえに、飛躍も難しいところがある。ソフトウェア設計においてUXが重要視され、そのための分析や設計に時間をかける、もしくはかかってしまうのは、こうした人の物の見方、認識、合意可能性の検証があるからで、それはつまり、文化的・社会的な挑戦なのである。
とうとうものの見方の話まで出てきた
宇宙は無重力なので超軽工業的なメタファと相性がいいという話(本当か?これは信じてないけどおもしろい言説ではある)
スマホを手から隠せず使い続けてしまう、どことなく中毒性や依存性がある、という心配があるかもしれない。しかしそれは、新しい普通、新しい前提への入口である。私たちは、安定的に歩くことを、平らな地雨に依存しているとか中毒性があるとは思わない。椅子への依存や中毒性を意識したりはしない。読書も、 いつのまにかそれは「たくさん読むことのほうがよい」という認識に変わってしまっている人工物であり、 もはやよほど極端でない限り中毒を問われることは少ない。
改めて、ありがたみはこれに真っ向から対立する概念だな。時間的・空間的・物質的コストをかけられたものに対して、ありがたいと思ってしまう。欲望を処理しきれない部分が生まれてしまう。
だからこそできるところは全部デジタルに置き換えるべきという主張も成り立つし、文脈やストーリーでありがたみを補うべきともいえる。
あー、だから「今しか見れない」はとても超軽工業的なありがたみ演出手法だな。 Instagramのストーリー、プレミア公開。NFTもありがたみを付加しようとするムーブメントだったのだろう。
最終章 DXとPX
無印良品について
この、「これがいい」ではなく「これでいい」という表現は、まさに本書で目指したいPXのあり方である。私たちは常に大量の工業製品に囲まれ、日々新しいものを供給され続け、それを購入し利用する。しかし、新しいものを手にした熱狂は最初や購入前までで、利用していくとともに減衰する。その減衰を制作者も利用者もみなもう十分に理解したところに到達している。そういう社会である。使うほどによい、時間が経つほどよいものがあることも事実だし、それを解とする人もいるかもしれない。だが、それはたいてい天然素材であることも多く、多くの人が要求すればそれは環境の問題となる。であれば、人工物において、その熱狂の減衰を考慮して設計するならば、はじめからその熱狂を高めないほうがよい。その意味で、無印良品の「これでいい」というメッセージは絶妙である。私たちはモノへの熱狂と執着に別れを告げ、PXを迎えようとしている。
間違いない。確かにソフトウェアよりもフィジカルな製品に向いた考え方だ。
おわりに
最後に、私がこうした新しい言葉を与えようとすること、本を書くモチベーションについてである。
私自身がほとんど総合、学際、先端と言われる分野で教育を受け、そして今なお、そこで研究教育を行っている。日本における学際分野の要求や流れは一九八○年前後から今につながるところではあるが、「いつまで学際や融合と言い続けるのか」という問いがある。いつか、その結果として、学問でも産業でも何か新しい流れ、輪郭をつくるべきである。学際とは、常にそれを考え問うべき領域であると思っている。
これもアツい。最初に超軽工業と聞いたときにまさに感じたこと。言葉でのデリバーがうますぎるな。