理由付け(インポート)
理由づけ
2020/04/08
2020/04/13
設計工学の教授が、設計の工程を上流・下流を明確に分けて説明していた。
顧客領域(ニーズ・問題)
↓
機能領域(要求・制約条件)
↓
実体領域(設計解)
↓
プロセス領域(生産条件)
上2つが上流、下2つが下流。上流はWhat toを考える過程、下流はHow toを考える過程とのこと。
ソフトウェア開発において、「どの画面にどのボタンを置くか」というのは、設計解である。
しかし企画側に要求と認識されていると、下流のデザイナーはそこを変えられないので辛くなる。
いわゆるデザインが企画より下流にあるのは間違いなくて、よりスムーズな開発のためにデザイナーとしてやるべきなのは、上流に食い込むことではなく、上流と下流の区別がどこにあるかを共有することなのかもしれない。
それとはまったく別の話として、デザインの知見を企画で活かすというのはある。
2020/05/07
暇と遊びの違い
散歩と迷子は、どちらも目的がないはずなのに全然楽しさが違う。
遊びはそれ自体が目的になっている。
2020/05/07
リモートになると、完全に自分のペースだから必然的に平衡点になってしまう。
2020/05/12
Affirmative Actionについて。
これをやるメリットはいくつかある。
①他の人と違うこと自体が職に大切である場合(例えば同じ境遇の人に親身に接することができるなど)、明らかに利点となる。
②差別されていてもこんなに優秀なんだから、差別がなくなったらもっと優秀に違いないという考え方。
実利的な面ではこういうことを言うのは問題ないと思うんだけど、差別撤廃の哲学の面では、それでいいんか?と思ってしまう。
例えば内部障害の人を考える。この人は今まで大変な思いをしながら、なんとか努力してプログラミングのスキルを身につけた。この人を採用するか、まったく同じスコアを持った健康な人を採用するか。
この人はこれからも内部障害を持ち続けるので、今後ずっと仕事をしていく上でプログラミングの能力はまったく同じである。能力面での差はない。つまり、このケースでは②は成り立たない。
あとは①、つまり周囲の人とのコミュニケーションとか、内部障害であることが仕事上で有利に働くことがあるか?という話になってくる。
ここで主張したいのは、「黒人である」などのファクターに比べて、「内部障害である」というのは仕事に活かしにくい。なぜなら黒人に比べて内部障害の人が少ないからである。黒人は、他の黒人に共感するなどしてパフォーマンスを出せるかもしれない。が、内部障害の人はそういうアドバンテージが少ない(と思う)。つまり黒人には①があるが、内部障害の人には①がないということになる。
ここで、「黒人である」ということを理由にAffirmative actionが適用できるのに、「内部障害である」ということを理由に適用できないとしたら、それはマイノリティを救済しているように見えて、実はマジョリティの論理を持ち込んでるだけじゃないかというのが、おそらくぼくのもやもやの理由である。似たような待遇の人に親身に接することができるって話なら、極論世界に一人しかいない難病の人には適用できない。
「内部障害であるだけで、それ自体が価値なんだよ」というのはそれこそいわれのない逆差別だし、きちんと努力している内部障害の人に失礼である(この話はゲイに置き換えても成立する)。
これを解決する唯一の方法として、「成果を出している人なら誰でも構いません」というのがあって、現状の混沌は、それが徹底されていないというただそれだけのはずだ。
※マイノリティの救済の際には必ず、別のマイノリティを踏み台にしてはいけない、というのがぼくの基本的な行動原理なので、ここを共有できない人の話は聞けないです。ごめんなさい。
2020/05/14
水溜りボンドにハマりそう。様式は弱め、企画もめちゃパンチがあるわけではない。知ってる人がだべってるという落ち着きが心地良いという感じ。これは毎日投稿だからこそ伸びるんだと思う。平衡点はかなーり低い。脳死。
2020/05/18
幸福とは、やっぱり平衡である。いい出来事と悪い出来事が起きる割合が、いい出来事のほうが多いという状態のことを幸福と呼ぶことにしたい。
2020/05/24
ユニバーサルな美は存在するんだろうか?
Kurzgesagtの動画によると、インドネシア、アメリカ、アフリカなどその他あらゆる場所で、洞窟の壁に手形がみられるという(手を壁に添えて、絵の具を塗り、手をどけてできる形)。しかも、どれも手を開いた状態のものらしい。
手を開いたほうが描きやすいというのはあると思うけど、開いた手に何か不思議な力があるのではと思わざるを得ない。
美は文脈だと試しに言い切ってみる。
絵を見たとき、それ自体を美しいと思うのか、それが心に呼び起こす風景や、蘇らせる記憶・体験を美しいと思うのか、どちらだろう。
本当になんの体験もしたことがない人は、どんな絵を見ても美しいと思わないんじゃないか。
・cuprateさんのグラフィック
・Jason Andersonの抽象画(四角形をたくさん並べて、街や都市の反射を描く)
・「抽象画」というもの
・あらゆる中世の絵
これらはすべて、見た人に何かしらを連想させていて、その連想の妙を美しいと言っているような気がする。
手はほとんどの人間が持っているし、数え切れないほど多くのインタラクションが手を介している。手を見たときに呼び起こされる体験は、人それぞれだろうが豊かなことに変わりはない。それを、美しいと呼んでいるのかな。
一方本当に何もないところから生まれているような気がする、美しいものというのもあるんだよな。
特に工業デザインや建築で顕著かもしれない。表現と言うより、理想の追求。
2020/05/25
【美しいUI】
「美しい数式」とか「美しい体系」とか言うときは、「できるだけ少なく、できるだけ理解しやすい法則/概念の導入で、できるだけ多くのことを表せること」を意味していると思う。
(ソースはぼくの持ってる熱力学の教科書のエントロピー導入のページ)
理解とか、理解に基づいた演繹ができると楽しいっていうの、結構人間の根幹にある気がしている。
それで、ちょっと前から感じているUIに対しての良い/悪いが似たようなところにあるなと思っていて、良い(美しい)UIというのは「できるだけ少なく、できるだけ理解しやすい新規のメンタルモデルを導入して、できるだけ多くの行動を可能にするもの」なんじゃないかなと思った。
この、導入された少ないメンタルモデルがわかりやすく、プロダクト全体を貫いている状態を「思想がある」と呼ぶことにする。
2020/06/02
【Specific Code】
大企業に提供されるわけではない、自分が自分のために作る、普通の会話のように使い捨てで作られるコードについての記事。
メイカームーブメントに近い気もするが、刹那的に捨てられるという点で異なる気もする。
ライブコーディングがこんなにも「ライブ」だとは思っていなかった。このコードの特徴は、最終的に完成するもののためにずっと見ているのではなく、その完成の瞬間が何度も訪れ、次の完成への変化を楽しんでいるというところだろう。
これはなかなか他に例が思いつかない。思いつき次第まとめる。
2020/06/03
【インターフェイスの役割】
もともとは潤滑油としての役割だったインターフェイスだが、昨今はどうも求められているものが違ってきているらしい。
モノの拡張、ヒトの拡張、社会の拡張の3段階である。
iPhoneは電話を拡張した。iPhoneを拡張するためにアプリとサービスがたくさん生まれた。そうして拡張されたモノを通し、ヒトが拡張された。ヒトは、それまで持っていなかった「いつでもどこでも、他人にイメージ・思考・情報を共有できる」という能力を手にした。
この能力を、本当に人間の脳と不可分にするために発展したのがモバイルにおけるUIデザインである。
そうして拡張されたヒトを通し、社会が拡張された。うん、された。拡張されたヒト前提のシステムを作れるようになったからだ。いつでもどこでも他人と情報共有ができるという新しい能力を使って、テレワーク、YouTuber事務所、Apple Payなどが誕生した。社会が拡張されたヒトばかりで構成されているからだ。
この話は中村さんにも若干されたような気がするし、他のところで聞いたこともあるような気がするが、詳しく思い出せない。くそ。
とにかく、人間の拡張の可能性というのは、稲見さんのところのロボットアームのようにただ身体が増えるとかだけではない。ツールを身体のように使えるからこそ、ツールに新たなアフォーダンスを付加していけばどんどんできることが増えていく。
ただ情報を引っつけるだけのARが嫌いなのは、おそらく「新たなアフォーダンス」という意味でのインパクトが薄いからだと思う。というのは、モノからこちらへの一方通行というか、「視える」という点しか進化できていないからだ。アウトプットまでできて初めて、現実世界のモノだろう。
せっかく現実世界と干渉できるのだから、レイヤーではなく、もうそれが現実だと信じて疑わないくらいに統合された体験と能力を付加できたらいいと思うのだ。
レイヤーを重ねて見るのではなく、モノ自体の拡張をすることが、新たなアフォーダンスへの道だと信じてやまないなあ。むず!!!
2020/06/04
【印象派】
記憶が抽象化されたものが心象風景(りんのすけさんはこれを記憶と呼んでいる)
ぶんちゃん「自分の中で文字への理想があって、それに近いから漢字は美しいと感じるのかなと思う。
2020/06/04
【人間性マウント】
というのを思いついたけど、少し危険な概念がもしれない。より高度な人間性への誘いを否定する言葉だから。あなたの思考より私の思考のほうが深いよ、というのを示唆するしぐさのこと。わざとはやらないほうがいいと思うけど、ある程度の差があれば話してたら自然とわかると思う。
2020/06/05
【Affirmative Actionつづき】
百合のリアルを読んでいる、とうとう。
女だから、テック企業で働いてはいけない、みたいなのに「女でも働けるもん!」と主張するのがAffirmative Actionなんだけど、それってコスパ悪いかもしれない。
本文の言葉を借りると「二分法にとらわれるあまり、その中での個人差を見失っている」状態な気がする。つまり、女が女であることからは脱却できてないんだよな。女のイメージを上塗りするだけになってしまう。
いや、別にいいんだけど、あらゆる分野についてイメージの上塗りするのは結構面倒だし、男だからこうあるべきとか女だからとかそういうのからまるごと開放されたほうがコスパいいんじゃないかなと思う。
2020/06/05
ステレオタイプって、様式なのか…。
初めて会った人の情報を知りたいとき、その人の考え方を知るより、属性を知ってそこから考え方を類推したほうが楽だから、ステレオタイプが発生する。
繰り返しコンテンツに接するうちに情報を圧縮できるようになる点でめちゃくちゃ似ているな。
ステレオタイプ通りに行動する人は認知負荷が低いので、情報の平衡点が低い人にとっては簡単に「理解できる」存在になる。
理解/推測できないものは怖い。
これへの対抗策として、「分類をしない」というのがあるのだが、超むずい。
牧村さんがすごいのは、分類をしないのに、具体例と緩やかな流れ、時代への分析によって相手の心の中を見抜いてしまうところなんだろうな。
やっぱ分類ってクソだわ。嘘だもん。いや、危険ってだけだ。自分の中で分類する分には特に問題ない。いや、視点を固めてしまう点で一長一短である。
2020/07/10
2020/07/24
Zoomだと自分の顔が見えちゃうから疲れるのではないかという仮説
2020/08/12
【フロクロさんのnote】
本当に正直に言うと恋愛感情を「遺伝子を残すために生まれたインセンティブ」とくくること自体けっこう疑ってはいる。
身体的な快への欲動と精神的な快への欲動を一緒に考えてるのがもやもやするのかな、でもお互いに影響しあってはいそうだしな。
ゲイの恋愛、フロイト先生のときはないことにされていた枠かもしれんけど考える価値あると思うな。
異性愛者の感情とおんなじだよという説明がよくされるが少し違うような気もする。人によるような気もする。
恋愛感情をバラして考えたほうがいいな。ここでは肉欲とプラトニックな欲を別で考えよう。
とりあえず、異性愛者の肉欲は「遺伝子を残すために生まれたインセンティブ」と言って差し支えない。オーガズムだけでなく人肌恋しいなどの感情もまとめてそう呼ぼう。
異性愛者のプラトニックな欲(例えば性欲が減退したあとのおじいさんでもおばあさんを慈しむ心があると思う)は、もう少し高次なものな気がする。アロマンティックの人たちはこれを主として恋愛感情と呼んでいると思う。それが正しいとすると、これは直接遺伝子を残したいという行動(性行為)には結びつかない。どちらかというと「純粋な好奇心」などに近しいと考えられる。というのをフロクロさんがもう愛というワードで言ってくれてました。閉廷。
同性愛者のプラトニックな欲も同様だと思う。それに関しては、同性愛者と異性愛者の恋愛感情は同じという言説は正しい。
問題の同性愛者の肉欲ですね。この型にはめるならもう病気というかエラーとしか表現できない。肉欲について考えるの吐き気するからこれくらいにするけど。
2020/08/26
「僕ゲイなんですよ〜」と「僕吹奏楽部だったんですよ〜」がだいたい等価になるくらいがちょうどいい。
ゆるいステレオタイプと帰属意識が残るくらい。「僕吹奏楽部だったんでイヤホンにはうるさくて…」くらい。
ただこれが、「僕吹奏楽部だったんでモテなくて…」のような言説になるとウッとなる。モテるかモテないかという軸が現代社会であまりに良い悪いの関係になってしまっているのが原因。他にウッとなる指標は例えば
「僕吹奏楽部だったんで金なくて…」
「僕吹奏楽部だったんで出世できなくて…」
「僕吹奏楽部だったんで仕事なくて…」
などがある。
吹奏楽部であることとこれらは関係ないと丁寧に広めようねというのが差別への対抗。
人によってウッポイント(良い悪いの軸)が異なるし、「吹奏楽部」の部分もっといろんなものに置き換えれるからまとめて扱おうというのが多様性。
確かに関係ないよな、とみんなが腹落ちor落ちてなくても頭で納得するのが少数者への理解。
でもこうしてみると、もはや「その軸、良い悪いの関係じゃないですよ」って言うのが一番手っ取り早い気がするんだよな。ガイドラインがなくなってくというのはこの意味で使っている。
2020/08/31
コミュニケーションのチャンネル、いい言葉だ。共通項を探すことによるとっかかりのこと。
点字を「特別視」しないために、健常者の他の感覚と比較すること。
2020/08/31
ハウスを聴くとき、展開とか次入ってくる音を気にしながら耳の中で混ぜて楽しむが、これにはじっくり没入が必要で、この聴き方は本の読み方とかにも通じるのかもしれない。一番近いのは「味わう」とかだと思う。
その人の音楽の聴き方によって読書スタイルが違うし、それを育むのはその人がこれまで聴いてきた音楽という説。聴いてる音楽のジャンルによって他の種類の芸術の鑑賞に影響は出るのか?
2020/09/11
最大多数の最大幸福という言葉にずっと取り憑かれている。
幸福度が数値で表せるようなものではないということは明らかだが、一旦表せるとしてみよう。
1億人の社会で、9999万人の幸福度が5上がるが、残り1万人の幸福度が300下がる施策を打つことは適切なんだろうか。1万人もいたらまあ誰かが声を上げるだろうけど。
じゃあ100人のクラスで、99人の幸福度が5上がるけど残り一人の幸福度が300下がる施策は?これがいじめに相当するわけだ。
上より下のほうが、受け入れられない感が強いような気がする。
非対称性が強ければ強いほど、声を上げたくても上げられない。
今の社会は「弱者が声を上げて強者の差別意識を変革していくんだ!」という構造になっているけど、正直これはなんとかしないといけない。が術がない。
世界に一人しかいない難病の人のために制度を作るわけにはいかないし、為政者側にその義務はおそらくない。本当にそれをしようと思ったら、難病の人とそのサポーターがキャンペーンを打つしかないのだ。キャンペーンというのは共感や憐憫によって強者の一部に弱者側になってもらう営みである。いわゆるアライ。
基本的に、少数派が意見を通すためには共感を通して多数派に訴えかけるくらいしか道がない、となってしまいがち。
でもこれは嘘で、少数派のための施策が多数派を助けることも結構頻繁にある。車椅子だけでなくベビーカーが乗れるエレベーターしかり、PixelのLive Captionしかり、男性性へのステレオタイプしかり。
つまり共感以外の方法でも多数派にメリットを作ることは可能である。
あーーーーー最近感じていた逆張りポイントはここかも!!!!
つまり、少数者としてはお涙頂戴お気持ち表明で強者の共感を誘うだけでなく、我々もあなた方も同時に利益を被る施策を提案したいんですがどうでしょう、のほうがお得だしうまくいく可能性が高いと思っている。というかそれでないと浸透しない。
往々にしてそんなものはすぐには出てこないから共感戦法に頼りがちなんだけど。
2020/09/11
【感情の消費の節約】
フロイトが言っていたユーモアの一つの定義らしい。
この感情が来る…!と身構えていたところに、予想が裏切られ急にあっけなくなってしまうこと。
今日死を迎える死刑囚に、憐れみや悲しみを共感する準備をしていたのに、死刑囚が「おや、今週も幸先が良いな」とつぶやいた。
というのがもとのエピソード。重い感情の共感の準備がまったく無駄になっている。
これを聞いて、パンクブーブーの漫才を真っ先に思い浮かべた。超怖い話のフォーマットで恐怖を感じる準備をさせておいて、文章の最後でどんでん返しをして一気に緊張を緩和させる。
2021/02/27
2021/04/18
手間暇をかけたコミュニケーションは、受け取り手により本気で受け止められる。
手間暇をかけているということ自体が、いかにその情報を伝えたいかのメタコミュニケーションになっているからである。
これは一対多でも同じで、ARグラスが普及しても、ドローンで解像度の悪い空中パフォーマンスをしたほうがおそらく観客に真剣に受け止めてもらえる。
2021/04/29
2021/07/20
2021/08/15
実家で読んだ佐藤雅彦の本。
状況が教えてくれる情報(メタコミュニケーション)は、入ってくるものではなく自分の心の内側で見つけ出すものなので、強く心を動かすのだと言っている。本当にそうだと思う。