歴史の螺旋
歴史は往復しているように見えて、螺旋を描く。
技術に関しては、まったく同じところに戻ってきているように見えて、実は差分がある。前回廃れた理由はなんだったか、それがどう解決したかを見ておくことで、新しい技術にも過去の歴史から類推できるようになる。これがベテランプログラマの唯一のアドバンテージであり、過去の流れの語り部にならねばならない(これは難しく、差分が見えていないと、この技術10年前のこれと同じだよね、とだけ言う老害になってしまう)。→技術の系統樹 一方変わらないものもあり、ずっと使われている仕組みはそれなりの理由がある。
Unixのすごさ:すべてがファイルという共通インターフェイスで作られていて、入出力の規格が完全に決まっているおかげで、非常に昔のコマンド(lsとか)と今書いたばかりのコードが簡単に連携できる。これはWebも同じで、RESTなWebではすべてがURLでできているし、メソッドもよく使うのは4個とかしかない。
「強い制約による高い相互接続性」と書かれている。非常に良い言葉。
RDBは、すべては関係(もしくは集合)であるということらしい。よく分からないけど。
技術以外にもこれは存在する。例えばグローバル主義とナショナリズムの振り子だったり、フラットと立体的の振り子だったり。なぜこれが起こるのか。フラットから進化する先は、全然別軸でもいいのに。
■自分が生きてるうちに何かを成し遂げたいとして、今の流れと反対のことを言うだけで「社会を思想的に変えた(進めた)」と言えてしまうから、何者かになりたい人にとっては便利。
■新しいことをしようとするとずらしが発生するわけだが、その欲求はしばしばこれまでとは反対のものに誘導する(Paired Constraints)。
■歴史を振り返ったときに、二項対立で整理するのが楽なので、フラット vs 3Dとして捉えがちになってしまい、フラットな中で起こっていた変化を見過ごす。
前りんのすけさんが言っていた、倫理が何重になってるかってやつと繋げられそうだ。どうしてこれがいけなくてこれがいいのか、という倫理はどんどん螺旋状に積み重なっていく。1つの作品の中だけで見ると、その螺旋を何ループできているかが作品の深み・包括度になるわけだ。
時代の波に乗って、という表現に込められたほんの少しの軽蔑。