テクニウム
われわれの現在の生活は、より多くのテクノロジーがもたらす良さを享受したいが個人的にはその必要性を最小限にしたいという、相矛盾する大きな葛藤の狭間で揺れている。
テクノロジーは力を持っているものの、これまで目に見えず、隠され、名前もなかった。例えば、179 0年にジョージ・ワシントンが初めて一般教書演説をして以来、すべてのアメリカ大統領は議会に対して、 国家の現状や展望、世界の重要な動きについて年間報告を行ってきた。しかし1939年まで、〈テクノロジー〉という言葉は一般的な意味では一度も使われておらず、その後も1952年の一般教書演説まで二度と使われることはなかった。私の祖父母や両親も、テクノロジーに囲まれて暮らしていたにもかかわらずだ。 テクノロジーは大人になってきているのに、われわれが集団として行った発明についての名前はなかった。
(悪口)WIRED全体にも言えることだけど、トピックがデカすぎて「この人にそんな大きいことを言うだけの権威があるのか?」と気になってしまうな……。参考文献もないし。一般向けのワクワクする文章としてはいいんだろうけど。この人は文化人類学者でも歴史学者でもないんだよなと少し思ってしまった。(文化人類学者って相当大きいトピックを扱っても許される雰囲気なのいいな)
自分が権威主義的なのかもしれないが、経歴から来る説得力というものは存在する。
権威だけじゃなくてリサーチの深さ、それが可視化されてるかもある。
われわれはテダノロジーというと、ピカピカなガジェットを想像しがちだ。ソフトウェアがそうであるように、テクノロジーが非物質的な形で存在しうると認めても、このカテゴリーの中には絵画や文学、音楽、 ダンス、詩や芸術一般を含めようとはしないだろう。しかし実際は含めるべきなのだ。もしUNIXで書かれた1000行の文書(例えばウェブのページを表示するためのコンピューターのコード)がテクノロジーであると認められるなら、英語で書かれた1000行の文書(例えばハムレット)も同様なものだと認めなくてはならない。両方ともわれわれの行動を変化させ、物事の起こる順序を変えたり未来の発明を可能にしてくれたりするものだからだ。そうなれば、シェイクスピアのソネットやバッハのフーガは、グーグルの検索エンジンやアイポッドと同じカテゴリーに属すことになる。それらは知性によって生み出された何か役に立つものなのだ。
いっそのこと、こうした膨大な発明や創造の蓄積を〈文化〉と呼んでしまったらどうだろう。実際そうしている人もいる。ここでのこの言葉の用法は、これまで発明されたすべてのテクノロジー、それにそれらの発明の生み出したもの、それに加えてわれわれの知性全体が生み出したその他のものも含まれる。そしてもし〈文化〉というものを、個々の地域の文化ばかりか、あらゆる人種が生み出した文化の集合体と考えるなら、私がこれまで語ってきた広いテクノロジーの領域に非常に近いものになるだろう。
しかしこの〈文化〉という言葉は、ひとつの点で決定的に不十分な点がある。それは意味する範囲が狭すぎるのだ。ベックマンが1802年にテクノロジーと命名したときに気づいたのは、われわれの発明は、さらに多くの他の発明を自己生成という方式で生み出していくということだった。テクノロジーによるアートは新しい道具を可能にし、それがまた新しいアートを生み、またそれが新しい道具を生むという無限の連鎖が続く。人工物の働きはあまりに複雑になったが、その起源では非常に相互関係の深いもので、それらがまったく新しい全体として、〈テクノロジー〉というものを形成しているのだ。〈文化〉という言葉では、このテクノロジーを推し進める基本的な自己推進的なニュアンスを伝えられない。 しかし正直なところ、〈テクノロジー〉という言葉もその点では不十分で小さすぎる。
私は誰も使わない新語を作ることは嫌いだが、今回の場合は現存のどの言葉もこうした展望を伝えることができていないという事情がある。そこで気が進まないのだが、われわれの周りでいま唸っている、より大きくグローバルで大規模に相互に結ばれているテクノロジーのシステムを指すものとして〈テクニウム technium〉という言葉を作った。テクニウムはただのビカビカのハードウェアの範疇を超え、ありとあらゆ
る種類の文化、アート、社会組織、知的創造のすべてを含む言葉だ。それには手に触れることのできない、 ソフトウェアや法律、哲学的概念なども含む。そして最も重要なことは、われわれが発明をし、より多くの道具を生み出し、それがもっと多くのテクノロジーの発明や自己を増強する結びつきを生み出すという、生成的な衝動を含んでいるということだ。
非常にいい
私の家の床下のどこかにアリの巣がある。アリたちは家に入れないようにしても、家の中の貯蔵庫から食 《物を持ち出してしまう。このようにわれわれ人類は、どうしてもそれを排除しないといけないとき以外は、 自然の法則に従わざるを得ない。われわれは自然の美しさにひれ伏す一方で、大きな刀を取り出しては切り刻な。服を織っては自然の世界と隔絶し、死に至る病に対抗しようとワクチンを製造する。元気になりたいと自然の中に駆け込むが、そこにはテントを持ち込む。
いまやテクニウムはわれわれの世界では自然に匹敵する力になっている。だからわれわれはテクニウムに対しても自然に対してと同じ姿勢で向きあうべきだ。テクノロジーに対しても、生命以上に多大な要求をすることはできない。ときにはそのやり方に降伏し、その豊かさに身を委ね、ときにはその自然な方向性をわれわれの要求に従って変えていくべきだ。テクニウムが望むことにすべて従う必要はないが、その力に反対するよりも協調することを学べるはずだ。
なんか主体性がなくてすごいな。確かに大半の人にとってはこの態度が必要だと思う。まだギラギラしている自分は、もう少し希望とエージェンシーのある認知がいいと思うけど。
でも調和を目指すのはいいね。
一貫してかなりゲーム理論的なものの見方だな。人々が集まると勝手にそうなってしまい、逃れることはできない。 チンパンジーのシロアリを捕る槍と人の漁のための槍、ビーバーのダムと人の作るダム、小鳥の吊り籠と人の吊り、ハキリアリの畑と人の畑はそれぞれ基本的には自然なものだ。われわれは製造されたテクノロジーを自然から分離して、それを生み出した自然の力に匹敵するまでになったからという理由だけで、それを反自然的なものとさえ考える。しかし道具はその起源や基本からして、われわれの生命のように自然なものだ。人類は動物であることに論議の余地はない。しかしまた、人類には動物ではない部分があることも論議の余地がない。この矛盾する性質が、われわれの本性の中心にあるのだ。同様にテクノロジーとは、定義上不自然なものだ。しかしより広い定義から言えば、テクノロジーも自然の一部だ。この矛盾もまた、人間の本性の中心にある。
表現が素敵だ
われわれはアフリカから歩き出た人々とは違う。われわれの遺伝子は、われわれの発明とともに共進化を遂げた。遺伝子の進化の平均的な速度は過去1万年だけに限っても、それ以前の600万年の100倍に達している。これは驚くべきことではない。われわれがオオカミから(いろいろな種類を繁殖させ)できた犬を飼い馴らし、牛やトウモロコシや、その他祖先がわからない多くのものを家畜化したり栽培したりしたのと同じように、われわれ自身もわれわれによって飼い馴らされてきた。
これ根拠ほしいな。調べるといいかも
大体合ってそう。Deep Researchこういうのに向きすぎ。
進歩は――道徳の進歩でさえも――結局は人間の発明だ。道徳はわれわれの意思や知性の有用な産物であり、そういう意味でテクノロジーなのだ。われわれは奴隷制が良くないと決めることができる。縁故の身びいきより公平に適用される法律のほうがいいと決められる。ある種の刑罰は違法だと条約で定めることができる。書き言葉を発明したおかげで、他人によりよく説明することができる。意識的に共感の輪を広げることもできる。それらはすべて、電球や電信と同様に、われわれの知性の産物としての発明である。
ラディカルだなあ。考え方にも進化的な側面があるのか?
書き言葉の発明は、記録された法律による平等化を可能にした。標準的な鋳造貨幣が発明されることで、交易はより世界的になり、起業家精神が高まり、自由という考え方を加速した。歴史学者のリン・ホワイトは、「あぶみほど単純な発明はほとんどないが、歴史にこれほど触媒的な働きをした発明もまたない」と書いている。ホワイトによれば、馬の鞍から低い位置にかけられたあぶみによって、騎手が馬上で武器を扱うことができるようになり、騎兵が歩兵に対して有利になり、馬を飼えるだけの封建領主が力を得て、ヨーロッパに貴族的封建制の勃興を後押しした。
第3章 第七界の歴史
ほとんどの新しいアイデアや発明は、切り離されたアイデアを融合させたものだ。時計のデザインのイノパーションは風車の改良に刺激を与えたし、ビール醸造のために作られた卵は鉄鋼産業に役立ち、オルガン製作用に発明された機構は織機に応用され、織機の機構がコンピューターのソフトウェアを生み出した。無関係な部品が緊密に統合されて、もっと進化したデザインになることがよくある。(略)とろしたみ合わせはお見合いのようなものだ。この組み合わせは祖先のテクノロジーを世襲した系譜を作り出す。ダーウィン的進化のように、微小な改良がより多くの複製を生み出すので、イノベーションは人日を通して確実に広まっていく。古いアイデアが融合して、アイデアの輪を孵化させる。テクノロジーは相互に支えあう協力関係として生態系を形成するばかりか、進化の系譜をも作り出す。テクニウムは進化する生物のひとつの類型としてしか、本当には理解できないものなのだ。
ちょうどサピエンスの進化系統樹の枝がずっと昔に祖先の動物から分岐したように、テクニウムはその祖先となる人間という動物の知性から分岐している。この共通の根から、ハンマー、車輪、ネジ、精錬された金属、栽培穀物といった新しい種や、量子コンピューター、遺伝子工学、ジェット機、ウェブなどのさらに高度な種が湧き出してくる。
テクニウム自体が種なのではなく、テクニウムは数多のテクノロジー(種)を束ねる界にあたるもの。
テクニウムと自然種との違い
自然はあらかじめ計画を立てられない。自然は将来利用するためにイノベーションを貯蔵したりはしない。自然における変異は、すぐに生存優位性をもたらさなければ、宝の持ち腐れで、そのうちに消えてしまう。しかし、ある問題に対して優位な形質が、予期しない他の問題に対しても優位に働く場合がある。例えば、羽毛は冷血動物である小型の恐竜を暖めるために進化してできたが、後には肢体を暖めるために生えた同じ羽毛が、ちょっとした飛行に役に立つようになった。この暖をとるためのイノベーションが、予期しなかった翼や鳥へとつながった。この事前に意図しなかった発明は、生物学では外適応と呼ばれる。この外適応が自然の中でどれほどあるのかはわからないが、テクニウムの中では日常的に起きる。テクニウムとはこの外適応に他ならない。というのもイノベーションは簡単に系統樹を超えて拝借されたり、時間を超えて使われたり、別の目的に適用されたりするからだ。
ナイルズ・エルドリッジという生物学者が、自分が収集していた500本のコルネット(トランペットの一種)に分類学を適用した話
すると自分の楽器の、ホーンの形、バルブの取りつけ位置、管の長さや直径などの17の特徴を抽出できることがわかった。それはまるで三葉虫の測定尺度のようだった。彼が古代の節足動物に適用するのと同じような手法でコルネットの進化を図表化してみると、その進化の系統パターンは多くの点で生物のそれと非常に似ていた。 例えば、コルネットはまるで三葉虫のように、段階的に進化していた。しかし楽器の進化にはまた非常に明白な特徴もあった。多細胞生物とテクニウムの進化の違いは、生物の場合はほとんどの形質の混合が時間的に「縦に」起こる点だ。生物のイノベーションは生きている親からその子孫へと(縦に) 時間を追って伝わる。しかしテクニウムにおいては、ほとんどの特性の混合は文字どおり時間を超えて、「絶滅」種や系統的に両親でないものからすら伝わる。エルドリッジはテクニウムの進化のパターンは、われわれが連想する生命樹の枝分かれの繰り返しのようなものではなく、どちらかといえば頻繁に「滅びた」アイデアへ折り返して行ったり「失われた」特徴を復活させたりする、拡散型で再帰的なネットワークであることを発見した。
これはすごい!!!
https://gyazo.com/aa9ad26a87350310dd3ff301ddca2707
生物種との違い3つ
親から子どもへ伝わるだけでなく、滅びたアイデアが復活したりと、拡散的で再帰的なネットワークになっている
形質転換は世代ごとに徐々に進むとは限らず、一気に進化する場合もある(真空管からトランジスタとか)
種が絶滅することがほとんどなく、過去に消えたと思ったテクノロジーもよく調べると誰かがまだ作っている
https://gyazo.com/aabfed5bf6b915ab0e0ed2544740aa42
テクノロジーはアイデアを基本にしており、文化がその記憶だ。それらは忘れられたとしても再生することができ、見落とすことがないよう記録できる(そしてその方法は良くなっている)。テクノロジーは永遠だ。彼らは生命の第七界の永遠の最先端なのだ。
痺れるぜ
第5章 深い歩み
ヘンリー王は豪華な服と、現在はそんなたくさんの人は雇えないほど何人も召使をかかえていたが、彼の住まいは配管もされず暗くて風が吹き込み、通る人もいない道で世界と隔絶されて、ほとんど外部との通信もなかった。ジャカルタの薄汚い大学寄宿寮に住んでいる貧乏な学生でも、だいたいはヘンリー王よりはましな生活をしている。
この種の議論には少し懐疑的。確かに物質的により多くのものを手にしているという意味では「ましな生活」だけど、それは幸福度とはほぼ関係のない指標ではないか?テクニウムの発展は皆の心の「当たり前」を引き上げてしまう効果があって、それは幸福度を下げる方向に作用している気がする。
Deep Researchで調べ中
……と思ったらその後すぐに、これが幸福と関係あるかどうかはわからないという言説が来ていた。流石にだった