ブックカタリストBC141用メモ
二冊の書誌情報紹介
哲学研究者、メディア批評家。専門はフランス現代思想、芸術学、映像論。
主な著書
『眼がスクリーンになるとき:ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』(フィルムアート社、2018年7月 / 河出文庫、2024年8月)
『非美学:ジル・ドゥルーズの言葉と物』(河出書房新社、2024年6月)
『ひとごと:クリティカル・エッセイズ』(河出書房新社、2024年11月)
出版社 : 講談社
発売日 : 2025/11/20
群像連載の「言葉と物」を単行本化
目次
序文
第1回 郵便的、置き配的
第2回 出来事からの隔離生活、あるいは戦争の二重否定
第3回 「たんなるパフォーマンス」とは何か
第4回 ネットワークはなぜそう呼ばれるか
第5回 フーコーとドゥルーズの「言葉と物」/青森で石を砂にした話
第6回 いま、書くことについて
第7回 置き配写真論、あるいは「コンテンツ」時代の芸術作品
第8回 ポジションとアテンション
第9回 サイボーグじゃない、君は犬だ、と私は言う
第10回 私でなくもない者たちの親密圏
第11回 暴力的な平等性と創造的な非対称性
作家・編集者。ナンセンスな問いを立て日常や文学に可笑しさを見つける文章を書く。代わりに読む人 代表。京都府出身、博士(理学) 。
2018年に刊行した自主制作書籍『『百年の孤独』を代わりに読む』を全国を行商して本屋さんへ営業したのをきっかけに、ひとり出版社・代わりに読む人を立ち上げ、独立。自著『パリのガイドブックで東京の町を闊歩する1・2』のほか、『うろん紀行』(わかしょ文庫著)、『アドルムコ会全史』(佐川恭一著)、文芸雑誌『代わりに読む人0 創刊準備号』を編集・刊行。
『百年の孤独』を代わりに読む (ハヤカワ文庫NF)
出版社 :柏書房(2025/12/26) ISBN:476015650X 目次
まえがき
第一部 地下鉄にも雨は降る
第一回 探しものはなんですか?
第二回 上を向いて歩こう
第三回 この恍惚を味わいたかったのかもしれない
第四回 管理台帳の姿を想像しながら
第五回 地方の地下鉄も見に行く
第六回 手に負えない
第二部 手に負えないものたちと暮らしてみる
第一章 さかのぼる
第二章 見る
第三章 作る
第四章 編みなおす
あとがき
それぞれのテーマ
1. 置き配とは何か?
テーゼ「コロナ禍以降、社会は置き配的なものとなった」
置き配が、物体の移動に関する技術ではなく、情報技術でもある。置き配的なものはわれわれのコミュニケーションにも関わってくる。
狭義の置き配は「届ける」の意味を変えたのだとしたら、置き配的なコミュニケーションにおいては「伝える」ということの意味が変わってしまった。→特にSNS(現X)
記号的なものと物体的なもの、言葉と物とのつながりも置き配的な形式に統御されている
フーコー『言葉と物』(近代以前と以後の「言葉と物」の関係)
置き配的なシステム→プラットフォーム化する社会
プラットフォーム資本主義(ニック・スルネック)、テクノ封建制(ヤニス・バルファキス)
あらゆる制作物が「コンテンツ」となり、あらゆる発言が「ポジショントーク」として消費される空間
→どう対抗するか
「作品」と「日記」
宅配的と郵便的
置き配的→"届ける代わりに置いているのではなく、置いたという事実を持ち帰るために運んでいるかのような"
疎密と将棋的・囲碁的
イベントレスネス
書くべき何かがあった日だけ書くのは日記ではない→「とりたてて何もなかったとしてもとにかくその日が終わるという強制力において書くことこそが日記の枠組みである」
毎日生きていれば、とりたててなにもないことのほうが多い。しかしそこにおいてこそ日記は試されるし、何もなかったと思いながら書き始め、言葉に引っ張られるように書くときこそ、振り返ってみれば良い日記になる。
出来事(イベント)に回収されない日記の書き方
SNSはつねに言及するべきイベントを提供し、あるいは自身の生活を充実したものとして提示するためのイベントの形式を提供する。それに対して日記においては、生活のスカスカさから出発することで、何をイベントとみなすかという解像度を上げ、その形式を拡張することができる。そしてそれを継続することで自身のうちに日記用のセンサーのようなものが育っていき、カメラを持って街を歩くときのように、見慣れたものの別の様相が立ち現れてくる。
日記は同一のテーマで連続に書くわけではない→ランダムノート
数十字のチャット、ツイート、コメントから、一日数百字の日記へ。それはたんなる量的な変化ではなく、テキストボックスという閉じられた箱からテキストエディタあるいは日記帳という平面への移行である。
2. 個人的な研究(日常のフィールドワーク)
地下鉄の漏水対策に興味を持つ著者
他人からも理解されないが、自分自身でもよくわからない
本書を通してそれが考えられていく
たとえば「一つとして同じものがなく、同じ場所であっても、時により変化している」
むろん、気にしていない人にとってみれば、どれも同じようにしか見えないだろう。存在すら目に留まらないかもしれない。興味を持った人には一つひとつが違って見えるが、興味のない人には同じものにしか見えない。あるいははなから存在してすらいない。むしろ、一つひとつの違いが見えるということが興味を持つことなのかもしれない。
「手に負えない」というキーワードにたどり着く
事件らしい事件が起きない小説(たとえば保坂和志の『プレーンソング』)への好み
人は日常によくあることをそれほど容易に意識にのぼらせていない。「何も起こらない」と言われる小説を随分好んで読んできた私には、到底「何も起こらない」とは感じられない。当たり前のことしか起きないというその当たり前すら、普段人は意識しておらず、むしろ、こうした小説を読むことではじめて、驚くべき形で目に飛び込んできているのに、ただ当たり前の日常が描かれていると嘆く。しかし、事件や節目を次々に追いかける、うつろいやすい人々の関心に抗うように、悲しい予感に頼らずに、日々のものごとを意識にのばらせることがいかに画期的か。どんな概念やアイデアも、わかってしまうとどうしてこんな簡単なことが思いつかなかったのか、と不思議であるのに似ていて、この日常の当たり前は指し示される前には意識されていないものなのだ。こうした「何も起こらない」とされる小説を読んだ人々は、きっとその「当たり前」を見る〈目〉を内面化しているはずだ。
今、世界は人に反射的に注意を向けさせるべく巧妙に設計された仕組みに溢れている。また同時に、それに抗するようにして、自分とは直接関係ないものをなるだけ排除し意識しないことをよしとする、ミニマリズム的姿勢が広まっている。これらは対立しているようでいて、実際には相互補完的である。そして、そのことによって本来私が人々に興味を向けてほしいと願うものへの興味の持続が阻まれていることも事実なのだ。
著者の願いそれ自体が「手に負えない」もの。
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